玄関雑学の部屋雑学コーナー感染症数理モデル

4.COVID-19とインフルエンザとスペイン風邪

SIRモデルは大変有用ですが、あくまでもモデルのため、自ずと限界があります。 その限界というか、問題点としては次のようなものがあります。

  1. 現実の集団は閉鎖集団――人の出入りが無く、かつ質が均一な集団――ではない!
  2. βとγを正確に推測するには流行が始まってから終わるまでの完全な観測データが必要である。
    感染の流行中に今後の動向を正確に予想することが難しい!

1番目の問題点については、不均一な1つの集団を均一な複数の亜集団(Subpopulation)に分けて、それらの亜集団を対象にしてモデルを組み立てることが考えられます。 これをマルチタイプ型流行(Multitype epidemic)モデルといいます。 これはモデルが複雑になるので、解析手法も結果の解釈も複雑になりますが、より現実に近い結果が得られます。

ただし単一集団でも亜集団でも、対象集団について人の出入りをできるだけ無くして、閉鎖集団に近づける必要があります。 その対策の例として国境の閉鎖や都市封鎖が考えられます。 これらの対策の主目的は、もちろん感染予防です。 しかし数理モデルを利用して流行の現状分析をしたり、今後を予想したり、対策を検討したりする時にも、現実の集団をできるだけ閉鎖集団に近づけることは大切です。

2番目の問題点についても色々な対応策が考えられています。 僕もそのために簡易モデルを考案しました。 SIRモデルを色々といじっていた時、モデルを簡単にし、パラメータ数を減らせば、微分方程式が簡単になり、近似解が得られることに気付きました。 これは薬物動態学でもよくやることなので、すでに気付いた人がいると思います(後で文献検索をしたら、やはりほぼ同じ数理モデルを使っている論文を見つけました)。

そしてその近似解に、某医学研究者が開発し、現在、僕が数学的な理論付けを手伝っている新しい統計解析手法を適用すれば、流行の初期〜中期段階で今後の推移をある程度予想できることがわかりました。 そのことを某医学研究者に知らせたところ、作成中の論文の考察部分に入れたいので具体例が欲しいと依頼されました。 そこでインターネットを検索し、WHOがインターネット上で公表しているWHO COVID-19 Dashboardからデータをダウンロードして現状分析をしました。

まず個人的に興味のある国の1万人あたりの累積感染者数の推移を、4月20日までのデータを用いてグラフ化しました(この解析をした時は3月末までのデータを用いましたが、ここでは4月20日までのデータを用いてグラフを描き直しました)。 マスコミなどは危機感を煽るために感染者数を実数で発表します。 しかし医学分野では、流行の実態を正確に把握するために感染者数を対象集団の人口で割り、感染率または1〜10万人あたりの感染者数で表現するのが普通です。

また医療機関では、PCR検査だけでなくCT等の検査と色々な臨床症状を総合的に検討して、最終的に感染者かどうか判断しています。 ところがマスコミが発表するのは、たいてい速報として発表されるPCR検査陽性者数です。 一般的な検査と同様にPCR検査は偽陽性者や偽陰性者が発生します。 そのため検査の陽性率は検査対象集団の感染率と一致するとは限りません。 その結果、マスコミが発表する感染者数――実際にはPCR検査陽性者数――は、厚労省やWHOが発表する確定感染者数よりも10〜20%程度多くなるのが普通です。 感染症数理モデルの解析に用いるデータは、当然、感染が確定した人のデータでなければなりません。 そこで僕はWHOのデータを用いることにしたのです。

上図を見るとイタリア(IT)が約30人/1万人で、この中では累積感染率が最も高くなっています。 そしてアメリカ(US)、ドイツ(DE)、中国(CN)湖北省、オーストラリア(AU)、韓国(KR)、日本(JP)の順になっています。 通常、β(単位時間あたりの感染率)は人口密度に比例して大きくなります。 そのことを考慮すると、どちらも人口密度が高い韓国と日本の累積感染率の低さは驚きです。

なお中国(CN)については解析対象を湖北省だけに限っています。 中国政府は、COVID-19流行後、すぐに武漢の都市封鎖をしたので、湖北省を準閉鎖集団として扱うことができて便利だからです。 またクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」は最も閉鎖集団に近く、しかも流行が始まってから終わるまでのほぼ完全な観測データが得られています。 そのため数理モデルを当てはめるのに最適です。 しかしダイヤモンド・プリンセスの累積感染者数は696人/3,777人つまり約1,876人/1万人になり、このグラフと同じスケールでは描けません。

日本のインフルエンザの累積感染者数は1年間で約1,000万人/12,700万人であり、1万人あたり約787人になります。 参考までに、感染症・予防接種ナビサイトで見つけた「各シーズンのインフルエンザ推定患者数週別推移(2020年第9週まで)」の流行曲線をアップしておきます。

このグラフは実数で描いてあるので、このグラフの縦軸を12,700で割れば1万人あたりの1週間分のインフルエンザ感染者数になります。 例えば2018/2019年のピーク時である第3週は約220万人/12,700万人=約173人/1万人になり、2019/2020年の流行が終わりかかっている第9週は約144,000人/12,700万人=約11人/1万人になります。 そして日本におけるインフルエンザの死亡率は約0.1%ですから、1週間あたりの死亡者はそれぞれ約2,200人と約144人と推測されます。

また1918〜1920年に大流行した有名なスペイン風邪(A型インフルエンザウイルスによる感染症)は3年間で約5億人が感染し、約5,000万人が死亡しました。 当時の世界人口は約20億人ですから、3年間の累積感染率は約2,500人/1万人で、死亡率は約250人/1万人です。 日本では3年間で約2,400万人が感染し、約48万人が死亡しました。 当時の日本の人口は約5,700万人ですから、3年間の累積感染率は約4,200人/1万人で、死亡率は約84人/1万人です。

感染症予防対策のうち、β(単位時間あたりの感染率)を小さくする対策はインフルエンザに対しても有効です。 そのため今年のインフルエンザの感染者数は、例年の60%程度に減ると予想されています。 しかしインフルエンザ患者は普通は隔離措置をしないので、γ(単位時間あたりの隔離+回復+死亡率)は例年通りです。 それに対してCOVID-19感染者は迅速に隔離措置をするのでγが大きくなります。

COVID-19はワクチンがなく、免疫を持っている人はいないと考えられています。 事実、感染者の隔離措置が遅かったダイヤモンド・プリンセスの累積感染者数は約1,876人/1万人であり、インフルエンザの1年間の累積感染者数約787人/1万人の2倍以上の感染率です。 ところがCOVID-19の約3.6ヶ月間の世界の累積感染率は約260万人/77億人=約3.4人/1万人で、死亡率は約18万人/77億人=約0.2人/1万人、日本の累積感染率は約11,000人/12,700万人=0.87人/1万人、死亡率は約300人/12,700万人=約0.02人/1万人です。 つまり世界も日本も感染率・死亡率ともに日本のインフルエンザの100分の1程度であり、スペイン風邪の1000分の1以下です。

これは世界各国の医療従事者の懸命の努力と、民衆の自助努力の賜物です。 現在までのCOVID-19感染者の推移は、おそらく感染症の歴史でも稀な奇跡的な現象であり、今はその奇跡を目の当たりにしている最中だと僕は思っています。 世界各国の医療従事者の方々に、あらためて心からの敬意の念を表したいと思います。