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1848. 甲を着た古墳人と首飾りの古墳人 投稿者:杉本典夫 [URL] 投稿日:2021/10/16 (Sat) 15:23:19
 先日、某旅雑誌に、僕のお気に入りの”日本のポンペイ”こと金井東裏遺跡のことが紹介されていました。この遺跡は古墳時代後期の6世紀頃のもので、近くにある榛名山の大噴火によって古墳時代の集落がそっくりそのまま火山灰に埋もれてしまった珍しい噴火遺跡です。
 この遺跡の中央付近のほほ同じ場所から、甲(よろい)を着た古墳人(渡来系の40代男性)の骨と、首飾りをした古墳人(縄文系の30代女性)の骨、そして5歳前後の幼児(性別不明)の骨と、生後数ヶ月の乳児(性別不明)の骨が発見されました。
 甲を着た男性は、骨の筋肉の付き具合から左利きで弓の鍛錬をしていて、乗馬をしていたと考えられています。首飾りの女性は上肢も下肢も発達していて、決してお姫様のような生活ではなく、しっかり働いていたと考えられています。そして骨に含まれる同位体元素の含量から、地元の群馬育ちではなく、長野の伊那谷あたりで育ち、そこから群馬に移住してきたのではないかと考えられています。また二人の乳幼児は群馬育ちらしく、甲を着た男性と首飾りの女性が群馬に移住した後、そこで生まれ育ったと考えられています。
 ポンペイと違ってこれら4人の他には人骨はひとつも発見されず、代わりに多くの古墳人の足跡と馬の蹄(ひづめ)跡が発見されました。これらの足跡と蹄跡は榛名山を背にして東の方向に向かって整然と並んでいて、集落の人達が集団で避難したのではないかと考えられています。
 このミステリアスな状況について、色々な説が提唱されています。縄文人のDNAを持つ僕は、次のようなドラマチックなストーリーを妄想しています。
 弥生時代から古墳時代にかけて、長野の伊那谷にあった縄文人の集落に朝鮮半島から渡来した人達がやってきて、両者が協力して弥生の集落を営んでいました。そのうちに人口が増えて集落が手狭になったので、渡来系の長の息子と縄文系の巫女の娘が結婚し、集落の一部の人達を引き連れ、新天地を求めて東日本の群馬に集団移住することにしました。
 彼等は、縄文人の慣習に従って神と仰ぐ火山(榛名山)の麓に近い土地を開拓し、新しい集落を造り上げました。ところがそのうちに榛名山の活動が激しくなり、近いうちに噴火すると予想されたので(火山を神と仰ぐ縄文人は火山の噴火を予想できたはずです)、集落の長はとりあえず集落の人達を安全な土地に集団避難させます。
 巫女である彼の妻は、神(榛名山)の怒りを鎮めるために集落に残り、巫女の正装(首飾り等)をして神に祈りを捧げます。長は古墳時代の王の正装である甲を着て、妻を守り、一緒に神に祈りを捧げるために、妻と一緒に集落に残ります。
 古墳時代の女性の結婚適齢期は15〜18歳くらいなので、もしかしたら二人には少年〜青年期の長男がいて、集落の人達を率いて避難させる一方、巫女を継がせるつもりの5歳の長女と乳飲み子を連れて集落に残ったのかもしれません。そして4人で神に祈りを捧げている最中に、不運にも榛名山が大噴火し、逃げる間もなく火砕流に埋もれてしまいました。
 自らの身を犠牲にして神の怒りを鎮めるのが巫女の役目なので、神の怒りを鎮めるのに失敗した時は逃げずに運命を甘受すると彼女は覚悟していたのではないかと思います。そして集落の人達を避難させた上で、彼女と運命を共にした長のリーダーらしい立派な行動は、今の日本の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたい気がします。
 ユーモラスな土偶に象徴されるように、縄文時代は戦争のない平等で平和な時代でした。ところが弥生時代になると階級が生じ、戦争が始まります。そして古墳時代になると戦争が終わってまた平和な時代になり、大規模な古墳と、土偶に似たユーモラスな埴輪が造られるようになります。古墳時代は、ちょうど江戸時代のように、戦乱と戦乱の間の、平和で安定した時代だったのかもしれません。
 僕の勝手な願望ですが、首飾りの女性の複顔はもっと神秘的な美人にして、”群馬のヒミコ様”という愛称を付けて欲しいものです。(^_-)

http://www.gunmaibun.org/kanaiura/kofunzin/kofunzin_2510.pdf
http://kofunnomori.web.fc2.com/gunma/shibukawa/kanai_higashi_p2.jpg