玄関雑学の部屋雑学コーナー日本語の起源

○カタカナとひらがな−3

では今までの憶測に基づいて、カタカナとひらがなの発生について、少々SFチックなシナリオを想像してみましょう。

今から1万年以上も前から紀元前300年頃まで、日本列島西部には南方系モンゴロイドがいて縄文文化を築いていました(関東以北と日本海側には北方系モンゴロイドも住んでいたと思いますが、ここではその話に深入りしません)。 縄文時代は新石器時代に相当し、10万〜20万人の人口で、それなりに安定した狩猟採集生活をしていました。

それが縄文時代晩期になり、朝鮮半島から北方系モンゴロイドが集団で渡来してきます。 彼等は青銅器から鉄器時代に相当する大陸の進んだ文明と、稲作技術を持っていましたので、それまでの狩猟採集生活を稲作を中心とした農耕生活に変えてしまいました。 こうして、縄文時代から弥生時代へと移行します。

この時渡来してきた北方系モンゴロイドの人数は、それまで日本列島にいた南方系モンゴロイドの10倍近くにもなり、またたく間に九州地方、中国・四国地方、関西地方、中部地方に広がり、人口が一挙に100万人ほどに膨れ上がりました。 稲作により食料供給が安定したため、これ以後、日本列島の人口は急激に増加していくことになります。

この時の2系統のモンゴロイド民族の関係は、争いによる征服・被征服といった関係ではなく、文明の進んだ民族が文明の遅れた民族を文明化したといった関係でした。 何しろ新しく渡来した北方系モンゴロイドは人数が圧倒的に多い上、文明の程度にも歴然とした差がありましたので、争いを起こす必要もなかったのです。 元々住んでいた縄文人は新しく渡来した民族に吸収同化され、両者の文化が混合して独特の融合文化が生み出されました。 これが、南方系の海洋文化と北方系の大陸文化が融合した弥生文化です。

この融合の過程で、北方系モンゴロイドが使っていた古代朝鮮語に、南方系モンゴロイドである縄文人が使っていたオーストロネシア語族(現在のマレー・インドネシア語、ポリネシア語、メラネシア語等の言語一族、インド・ヨーロッパ語族に近い文法を持つ)の語彙が入り込み、独特の混成言語──古代日本語が形成されます。

ある民族が他の民族を征服して吸収同化した場合、征服した側の言語と征服された側の言語が混ざり合い、独特の混成言語が形成されることがあります。 そういった言語の例としては旧植民地で発生したピジン語や、ピジン語が母国語化したクレオール語が有名です。 また英語も、フランス人がイングランドのゲルマン人を征服した時に発生したクレオール相当の言語ではないかと言われています。

こうして古代日本語が形成されると同時に、縄文人の卓越した絵画能力と、渡来人の進んだ文化とが相まって、日本固有の絵文字が発明されます。 中国の漢字は志賀島の「漢委奴國王」の金印(紀元後57年)でわかるように、弥生時代中期にはすでに日本に伝わっていましたが、それを使いこなすまでには至っていなかったのです。

縄文時代晩期から弥生時代初期に渡来してきた人達の一部は、瀬戸内海を経由して、現在の畿内一帯に広がり、どことなく故郷の朝鮮半島内陸部を思わせるその土地に定住します。 彼等は早い時期に日本列島に渡来したため、縄文人との融合度が高く、比較的穏和な農耕民族となっていました。 そして馬鈴を発達させて銅鐸とし、農作業用の道具として利用したり、表面に絵文字を刻印して祭具として祭ったりしました。 こうして彼等は、畿内を中心として「銅鐸文化圏」を形成します。

弥生時代中期から後期に遅れて朝鮮半島から渡来してきた人達は、九州北部から瀬戸内海西部に広がり、畿内とは別のグループを形成します。 彼等は戦国時代になっていた中国大陸や朝鮮半島の影響を強く受けた、比較的好戦的な民族で、銅剣と銅鉾に象徴される「銅剣・銅鉾文化圏」を形成します。 やがて北九州一帯を統一したある部族が、畿内にいた部族まで支配下に組み入れようと東進を開始します。 この争いは大陸のより進んだ戦争道具、すなわち鉄器を中心にして武装していた九州の部族の勝利に終わり、彼らは畿内に進出して、以前からそこにいた多くの部族を支配下に入れます。 こうして日本初の統一王朝・大和朝廷が成立し、時代は古墳時代へと移ります。

古墳時代にも朝鮮半島から渡来人が沢山やって来ますが、日本が独立国としての体裁を整える奈良時代までは、渡来人は「今来(いまき)の人」と呼ばれていて、「帰化人」とは呼ばれていません。 これは、この時代の日本人の出自を考えれば当然のことです。

大和朝廷は出身地である朝鮮半島と密接な関係にあり、中国文化を取り入れるのにも積極的でした。 まず漢字を取り入れて漢文を国の公式な文字体系にし、ついで仏教を取り入れて、仏教を中心として国を治めていこうとします。 そして大化の改新の後、律令制度を取り入れて法治国家としての体裁を整え、各部族に伝わっていた神話と歴史を都合の良いように再編集して、天皇支配の正当性を強調します。

独立国としての体裁が整いますと、中国の物真似一辺倒から脱し、日本独自のものを確立しようとする動きがでてきます。 そのひとつが、文字体系を日本語に合ったものにしようとする動きです。 色々と試行錯誤した後、当時の国際社会の共通語である中国語からかけ離れないように、原則として漢文を中心とし、それを日本語で訓読するために補助的な表音文字を作ることになります。 その表音文字は基本的に漢字の一部を取って作るものの、適当な漢字がないものについては、各部族の間に伝わっていた日本古来の固有文字を流用することにしました。

日本古来の固有文字であった絵文字は、主として畿内にいた部族の神官などによって細々と伝えられ、それでも原始的な線文字段階にまで発達していました。 それらの固有文字は日本独自のものでしたし、一応、一部の神官や学者が使っていましたので、日本の独自性を打ち出すのに好都合だったのです。 こうして作られたカタカナは、それまでの固有文字に形が近いため、すぐに字形が安定して漢字の補助文字として定着します。

このカタカナに刺激されて、万葉仮名の草書体から主として宮中の女官達の手によって、ひらがなが自然発生します。 ひらがなは非公式な表音文字でしたが、筆に適した書きやすさから、次第に広く使われるようになります。

やがて長い年月を経てようやくひらがなが定着した頃、今度は欧米の文化とアルファベット文字体系が日本に入ってきます。 外国の文化を取り入れることにかけては、弥生時代から得意中の得意だった日本人は、その新しい欧米の言葉と文字を漢字と同じように独自の方法で消化して、準日本語として取り入れてしまいました。 中国の漢字が日本では読みも意味も多少異なったものとなり、和製漢字である「国字」まで作ってしまったのと同様に、欧米の外来語がその元々の言葉とは読みも意味も多少違ったものとなり、和製英語まで作ってしまうところなど、まさに日本人の面目躍如たるところです。

外来語の氾濫に「美しい日本語が乱れる!」と反発する人もいますが、その美しい日本語を奈良時代以前の日本人が聞いたら、「何という中国語かぶれの、汚い日本語だ!」と驚くことでしょう。 どんなものでも自分達なりに消化して取り入れてしまう柔軟性が、良きにつけ悪しきにつけ、弥生時代以後の混血日本人と混合日本語の大きな特徴と言えるでしょう。

……もちろん以上のシナリオは全くの夢想にすぎませんが、ちょっとした疑問をとっかかりにして、こんな空想の翼を広げてみるのも楽しいものです。 日本の古代史には多くの謎がありますから、空想の翼を広げる余地は沢山あります。 特に宮内庁管轄の天皇陵古墳が発掘調査されないかぎり、当分、空想のネタに困ることはないでしょう。