玄関雑学の部屋雑学コーナー統計学入門

1.10 科学的思考法

(1) 近代科学と数学

科学的研究では普遍的な原理を帰納的に洞察し、その原理から演繹的に導かれる現象を予測します。 そして近代科学、特に自然科学では観測データを可能な限り数量化し、理論をできるだけ数式で表現します。 そのため科学用言語として数学が用いられるようになり、中でも演繹的な微積分学と帰納的な統計学とが重宝されています。 近代科学の父ガレリオ・ガリレイ(Galileo Galilei)は次のような名言を残しています。 (注1)

「その書(自然)は数学の言語で書かれている」(『偽金鑑識官(1623年)』山田慶兒・谷泰訳、中央公論社刊より、一部改変)

また近代統計学の基礎を築いた科学者の1人であるピアソン(Karl Pearson)は、ガリレイの言葉を踏まえて「統計学は科学の文法である」という有名な言葉を残しています。 ガリレイの名言と比べると少々わかりにくいこの言葉は、自然現象を読み解き、それを法則として数式化するには統計学が役に立つといった意味でしょう。

憂鬱なことに、これらの言葉はどうやら真実のようなので、数学・統計学アレルギーの人にとっては全く頭の痛い話です。 しかし今のところそれに代わるうまい方法がないので致し方ありません。

数学は科学のための特殊言語なので、上手に使いこなせば非常に便利なものです。 数学を使わないで自然を研究することは、言わば楽譜を使わずに音楽を演奏するようなものです。 それは全く不可能というわけではないものの、ひどく困難な作業であることは確かでしょう。 しかし数学はあくまでも科学的研究をうまく行うための道具にすぎず、研究の目的ではありません。 ですからいたずらに数学に振り回されることなく、常に数字の背後にある科学的実体を頭に描き、数式が表現している科学的内容を把握しておく必要があります。

科学的研究の最終目標は科学理論の確立であり、最も重要なポイントは要約されたデータに関する医学や薬学などの科学的な考察です。 抽象的な数字または数式と具体的な科学的内容を相互に翻訳することのできる能力は、近代科学の研究者にとって必要不可欠なものの1つであるといっても過言ではないでしょう。 このことから「優れた数学者、必ずしも優れた自然科学者にあらず」ということが起こるのです(もっとも数学者にいわせれば、「その逆もまた真なり」というところでしょう)。 (注2)

ちなみに「統計解析」などと呼ばれ、「解析=統計学」と思っている人が多いようですが、実は解析とは数学上は微分・積分学のことです。 微分とは「微(カス)かに分った」、積分とは「分った積(ツモ)り」などと揶揄されているように、これも数学アレルギーの人にとっては若かりし頃にさんざん苦しめられた不倶戴天の敵です。 そして統計学は一般には応用数学と考えられていますが、実際には数学応用学と呼ぶ方が正確です。

(2) 演繹法と帰納法と発想法

ところで演繹法帰納法とはどのようなものかご存知でしょうか? これをはっきりと理解している人は意外に多くないようです。

「演繹法とはエンエンと駅を連ねていくような方法で、帰納法とは昨日へ昨日へとさかのぼっていく方法である」

……などという迷答を信じてしまってはいけません。

図1.10.1 3種類の論理的思考法

演繹法とは、ある事実や仮定に基づいて、それから論理的に導くことのできる事項を次々と推理していく発散的思考法です。 有名な三段論法や公理から定理を証明していく数学的思考法がこれに相当します。 例えば、ある日突然、宇宙からやって来たラムという名のキュートな少女が、地球の浮気っぽい少年アタルに一目惚れしてしまいました、さていかなることに相成りますやら……などということを連想していくのが演繹的思考法であり、これはマンガやSF小説の最も得意とするところです。

帰納法とは、演繹法とは反対に一見多種多様な個々の事実から、それらに共通する根本的かつ普遍性なことを抽出していく収束的思考法です。 自然科学全般や統計学がこれに相当します。 例えばAで始まる名前の町でAを頭文字に持つ人物が殺され、次にBで始まる名前の町でBを頭文字に持つ人物が殺され、さらに同じような事件が次々と起こっていく、その理由や如何に?……などということを推理するのが帰納的思考法であり、これはもう言わずと知れた推理小説の独壇場です。

演繹法も帰納法も古代ギリシャの哲学者アリストテレス(Aristoteles)が考えたものです。 そして彼はもう1つの論理的思考法として発想法というものも考えています。 発想法は演繹法と帰納法を合わせたような収束かつ発散的思考法です。 これは西洋の合理的な思考法とは合い入れず、その後ずっと発達せずにいました。 ところが近年になって日本の川喜田二郎氏によって「KJ法」として定式化され、野外科学や会議を効果的に進める手法として学校や企業などで大いに流行しました。

実際の科学的研究活動は経験と独創力から産み出された優れた研究仮説や理論を主体にして、研究法の論理と技術とで正しく方向付けしながら、実行力と研究費によって進めていく作業です。 仮説や理論に裏打ちされず、目的のはっきりしない研究はやってもあまり意味がありません。 そして正しい実験計画のない研究は地図を持たない登山のようなもので、多くの時間と費用を無駄にし、その挙句に結果が得られなかったり、時には間違った結果を導いてしまったりします。 また実行に必要な人・物・費用・時間——いわゆるヒト・モノ・カネ・ヒマ——がなければ動きがとれません。

日本の研究環境は外国に比べてヒトは揃っているのです(と僕は信じています)が、モノとカネが絶対的に不足していると言われています。 確かに欧米の特に基礎研究にかける費用と情熱には驚くべきものがあり、頭脳流出もむべなるかなという気がします。

図1.10.2 科学的研究の進め方

(3) 近代科学の確立

このような近代科学が確立されるまでには幾多の先人達の苦闘があり、科学の歴史はそのまま迷信と権力との絶間ない戦いの歴史でもあります。 いつの時代でも迷信と権力は、なかんずくその申し子である宗教と戦争は苦々しいカクテルを作りだすものです。

古代ギリシャ最大の知性であったアルキメデス(Archimedes)は、その何者にも縛られない自由主義的な思想の故に、多くの科学的業績を残すと同時に非業の最後をとげることにもなりました。

彼の住むシラクーサの町にマルケルス率いる狂暴なローマ軍が侵略した時、彼はいつものように地面に図を描いて数学の研究に没頭していました。 そこへローマ兵がやって来て、彼を軍に連行しようとしました。 今しも問題の素晴らしい証明法を思いついたばかりのアルキメデスが「問題を解くまで少し待って欲しい」と懇願したところ、そのローマ兵は激昂して無抵抗の老科学者を問答無用と切り殺してしまいました。

かくしてマルケルスは、非道の将軍として歴史にその名をとどめることになりました。 まことに、いみじくも近代の数学者兼哲学者ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)が言ったごとく、

「(軍事帝国)ローマには、数学的図形の瞑想に没頭していたがゆえに自らの命を落とした者などひとりもいない」(『数学入門(1911年)』大出晁訳訳、松藾社より、一部改変)

のであります。

中世に目を転じれば、イタリアのガリレオ・ガリレイがいます。 アリストテレスの誤謬に満ちた学説を科学的実験によって打ち破り、望遠鏡による天体観測によってコペルニクス(Nicolaus Copernicus)の地動説を支持し、近代物理学の礎を築いた偉大な科学者も、その進歩的な学説のために苛酷な宗教裁判にかけられ、ついには迷信と権力の権化であるローマ法王の前に膝を屈することとなります。

裁判が終った時、思わずつぶやいた(という伝説がある)あまりにも有名な彼の言葉、

「それでも地球は動いている……」

は、科学者としての良心が言わしめた悲痛な叫びとして我々の胸を打たずにはおきません。

近世では酸素を発見して燃焼のフロギストン説を否定し、化学反応の定量化を確立して近代化学の祖となったフランスのラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier)がいます。 時あたかもフランス革命の真っただ中、不運なことに旧政府の役人でもあった彼は、革命政府によるでっち上げ告発を受け、裁判とは名ばかりの一方的刑宣告の場に引き出されることになってしまいます。

心ある人々の必死の助命嘆願にもかかわらず、悪名高い裁判官コフィナルの今に至るも有名な一言、

「共和国は科学者を必要としない」

によって死刑の宣告を受けた彼は、判決のわずか数時間後、断頭台の露と消えたのでした。

世界中の科学者達は驚き、激しい非難の声を上げて嘆き悲しみました。 中でもラヴォアジェの友人であった数学者ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange)は、次のような怒りの言葉を残しています。

「彼の首を切り落とすにはほんの一瞬でこと足りたろうが、彼と同じ頭脳を作り出すには百年かけても十分ではなかろう!」

そして20世紀最大の物理学者アインシュタイン(Albert Einstein)も、近代において権力と戦った一人です。 不滅の科学的偉業を成し遂げた彼もユダヤ人であるが故にナチスによる迫害を受け、ついには故国ドイツを追われアメリカに亡命せざるを得なくなります。

彼は平和をこよなく愛して戦争を始めとするあらゆる暴力を心から軽蔑し、常に圧制に反対して世界中の虐げられた人々を擁護し、原子力の原理的発見者としてその平和利用を切望し、機会あるごとに自ら原水爆の廃絶を世界に訴え続けました。

「この巨大な力を解放した我々科学者には、原子力が人類の幸福のためにのみ使われ、人類を皆殺しにするために用いられないように制御しなければならないという、全てのものに優先する責任が負わされているのです。 我々人類は戦争のための計画と平和のための計画とを同時に立てることはできないのだということを、はっきりと認識しなければなりません。 原子エネルギー問題解決のカギは、我々人類の心の中にあります

世界中に無意味な殺し合いや愚かしい論議が満ちあふれていた狂気の時代を、感情に曇らされることなく生き抜いた人物の理性溢れる声を聞くことは心爽やかになる気がします。 我々に呼びかけているのは理性の中に根ざした善意を持った人の声であり、それは世界の良心の声でもあります。 彼の名は、憎悪を説き、理想を攻撃し、戦争を悪用する人々からは憎しみと嘲笑の的にされ、人間を信じ、理想を追及し、自由と平和とを愛してやまない人々にとっては人類の理想と進歩的な創造力の象徴になったのです。

そして1955年4月、第1回国際科学者会議における原水爆禁止宣言文に署名した一週間後、その生涯をかけて科学の発展と平和の実現に努力した、真の意味で偉大な科学者アインシュタインの命は春の淡い夕陽とともに静かに燃えつきたのでした。


(注1) 科学史上有名な予言の例としては次のようなものがあります。

  1. ニュートンの万有引力の法則(1666年)に基づく海王星(1846年)と冥王星(1930年)の予言と発見
  2. マックスウェルの電磁気学の法則(1873年)に基づく電磁波の予言と発見(1888年)
  3. アインシュタインの相対性理論(1905年〜1915年)に基づく原子力(1938年)と重力場による光の屈折効果(1919年)の予言と発見

特に電磁波と原子力の予言は、それまで全く知られていなかった現象の予言であると同時に我々の生活に大きな影響を及ぼしたものでもあり、特筆に値するでしょう。

(注2) 自然科学者としても数学者としても超一流であった代表的な人物として、アルキメデスとニュートンがいます。 ニュートンの業績として、物理学における万有引力の発見と数学における微積分の発明はあまりにも有名です。 それに対して「アルキメデスの原理」によって物理学者として有名なアルキメデスが、数学者としても数々の偉大な業績を残していることは数学に造詣の深い人以外にはあまり知られていません。

アルキメデスは紀元前3世紀という時代にすでに円周率を計算し、球の表面積や体積を求める公式を発見し、さらに何とニュートンより2000年近くも先んじて微積分の入口にまで達していたのです。 我々の抱いているイメージとは違って、彼にとっては数学こそが最も重要な研究対象であり、その他の学問は単なる余技にすぎないものでした。