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この会議室はパソコン通信と同様のオンライン掲示板です。 どんな話題でもかまいませんので気軽にじゃんじゃん書き込んでください。

No.955 - 1004 / 50 件表示


1004. 三人のレンガ職人−裏バージョン 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/05(水) 20:08:16
 僕がこの寓話を聞かされた時はまだ若くて純真だったので(*^^*)、単純に感動
してしまいました。p(T_T)

 しかしそれから色々なことを経験して社会の裏を知り(^^;)、世間に対して斜
に構えた悪徳窓際幽霊社員になってからは、自分の部署に配属された新入社員に
対して次のような裏バージョンを話し、純真な新入社員を惑わして喜んでいまし
た。

 この裏バージョンは僕のオリジナルです。v(^_-)

--------------------------------------------------------------------------
(前半は正統派バージョンと同じ)

 実は、一人目の職人は仕事よりも家族を大切にし、家族と一緒に仲良く暮らし
ていました。

 二人目の職人はお金を貯めて、そのお金で恵まれない人のためにボランティア
活動をしていました。

 三人目の職人は家族よりも仕事を大切にし、家庭を顧みなかったため妻から離
婚され、子供も妻と一緒に彼から去って行ってしまいました。


 ……さて、あなたはどの職人になりたいですか?(^_-)

                 続きます       とものり

1003. 三人のレンガ職人−少々あざとい後日談 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/05(水) 20:07:26
 社員研修などでは、この寓話に次のような少々あざとい後日談を付け加えるこ
とがあります。(^^;)

--------------------------------------------------------------------------
 それから10年後。

 一人目の職人は、以前と同じように愚痴をこぼしながらレンガを積んでいまし
た。

 二人目の職人は「もっと条件のいい仕事があった」と言って、賃金は良いが、
危険な大聖堂の高い屋根の上で働いていました。

 三人目の職人は色々な知識や技術を覚えたため、現場監督として施工を任され、
多くの職人を育てました。

 そして後に、この大聖堂に彼の名前が付けられたそうです。

                 続きます       とものり

1002. 三人のレンガ職人−正統派バージョン 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/05(水) 20:06:50
 中世ヨーロッパのある町で、大聖堂の建築が行われていました。そこで三人の
職人がレンガを積んでいました。

 そこに旅人が通りかかり、一人目の職人に何をしているのか尋ねました。

 するとその職人は、

 「親方に言われて、ただレンガを積んでいるだけさ。つまらない仕事だよ」

と不機嫌そうに答えました。

 二人目の職人に同じことを尋ねると、

 「レンガを積んで壁を作っているんだ。この仕事は大変だけど、賃金が良いの
 でここで働いているんだよ」

と答えました。

 三人目の職人にも同じことを尋ねると、

 「大聖堂を造るためにレンガを積んでいるんだ。この大聖堂ができれば街中の
 人が喜ぶだろう。私はこの仕事を誇りにしているよ」

と胸を張って答えました。


 ……さて、あなたはどの職人になりたいですか?

                 続きます       とものり

1001. 三人のレンガ職人−前口上 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/05(水) 20:06:15
 少し以前に、ある人が懐かしい寓話を思い出させてくれました。それは、僕が
新入社員の頃に会社の研修で聞かされた「三人のレンガ職人」という寓話です。

 この寓話はアイソーポスの寓話(日本では、アイソーポスを英語読みした「イ
ソップ物語」として有名)のひとつであり、企業の新入社員教育や社員研修など
で、社員のモチベーションを上げるために盛んに利用されています。

 ただしアイソーポスは古代ギリシャ時代の人であり、この寓話の舞台は中世で
すから、これはアイソーポス自身が創った話ではないと思います。(^^;)

 実はアイソーポスの寓話は全てが彼の創作ではなく、それ以前から伝えられて
いた寓話や民話、そして後に創作されたアイソーポス風の寓話が全て「アイソー
ポスの寓話」としてまとめられたものなのです。

 この寓話は色々なところで利用されるせいか、色々なバージョンがあります。
まずは、僕が研修で聞かされた正統派バージョンをご紹介しましょう。(^_-)

                 続きます       とものり

1000. 曲がりくねった道−3 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/04(火) 12:29:30
 しかしその後、隣の野原が開発されて町ができ、まっすぐな道路が通ったため、
旅人は隣町を通るようになり、その町の道路を通らなくなりました。

 その町の住人はあせりましたが、その頃には曲がりくねった舗装道路を中心に
して家が立ち並んでいたので、今更、道路をまっすぐに直すことはできなくなっ
ていました。

 そこで町の住人は次々に隣町に引っ越し、その町は寂れていって、とうとうゴ
ーストタウンになってしまいました。


 そしてその後、誰が言うともなく、その町の残骸は「長良川河口堰の町跡(^^;)」
と呼ばれるようになりましたとさ。(^_-)

              終わりです          とものり

999. 曲がりくねった道−2 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/04(火) 12:28:48
 やがてその町の住人は、その小道を整備して大きな道路にし、生活に便利にす
ると同時に、沢山の旅人を迎えて町が繁栄するようにしたいと考えました。

 その小道が曲がりくねっている理由を町の住人は誰も知りませんでしたが、多
くの住民が不便に思っていたので、この際、その小道をまっすぐな道路に直した
方が良いという意見が出ました。

 しかしその町の町長を始めとする有力者達は、小道に沿った便利な土地に家を
建てていたので、

 「町を作った先人達の意思を尊重しなければいけない!」

とヘ理屈をこねてその意見に反対し、小道を曲がりくねったまま舗装道路にする
ことを提案しました。

 町の住人はその2つの案について色々と議論しましたが、最終的には町の有力
者達がお金と権力にものを言わせて舗装案を無理矢理押し通し、舗装工事が行わ
れて小道は舗装道路になりました。

              続きます          とものり

998. 曲がりくねった道−1 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/04(火) 12:28:00
 昔々、あるところに草が生い茂った野原がありました。

 ある時、その野原に狐に追われてウサギが逃げて来ました。ウサギは狐から逃
れようと野原を右往左往しながら曲がりくねった道筋で逃げ回り、野原の向こう
に逃げていきました。

 するとそのウサギを追って狐がやってきて、やはり曲がりくねった道筋で野原
を駆け抜けていきました。

 次にウサギと狐の匂いを頼りにして色々な動物がその野原を横切って行き、曲
がりくねった獣道ができました。

 その後、その獣道を人間が利用するようになり、野原の中に曲がりくねった小
道ができました。

 やがてその野原に人間が沢山やって来て、生い茂った草を刈り、小道を中心に
して人が住むようになりました。そしてそこに住む人が次第に増えていき、小さ
な町になりました。

              続きます          とものり

997. 曲がりくねった道−0 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/04(火) 12:26:32
 以前、仕事で参加した薬学会で、「曲がりくねった道」という面白い寓話を聞
きました。

 それは、固定観念に縛られていると合理的な発想がしにくく、昔から行ってき
た慣習を変えることがいかに難しいか、ということを意味する寓話でした。

 その話を、僕なりに少し脚色して紹介することにしましょう。(^_-)

              続きます          とものり

996. 精神的に豊かな生活 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/03(月) 17:34:21
 東北地方の算額の存在を知り、今、お気に入りのイメージがあります。

 それは江戸時代の冬の夜、雪深い東北地方の貧しい農家で、粗末な服を着たオ
ジサンが、囲炉裏端で白湯をすすりながら、難しい和算の問題を楽しみながらじ
っくりと解いている、という情景です。

 これと好対照な情景が、現代の冬の夜、郊外の建売住宅で、安物のガウンを着
たオジサンが、ストーブにあたってビールを飲みながら、テレビのお笑い番組を
見て能天気に笑っているという、数年前までの僕自身のイメージです。(^^;)

 そしてこれまで抱いていた”精神的に豊かな生活”というイメージは、都会の
マンションの一室で、渋いながらも趣味の良い服を着たオジサンが、ワイン片手
にバッハを聞きながら推理小説を読んでいる、という少々ステレオタイプな情景
でした。(^^;)

 でも今の僕は、もし上記の3人のオジサンと知り合う機会があったとしたら、
迷うことなく一人目の農家のオジサンと知り合いになりたいと思います。

 その理由は、僕が数学を使った仕事をしているということだけでなく、一人目
の農家のオジサンが一番興味深い話をしてくれそうだからです。

 江戸時代は物資的には豊かではなかったものの、時間的余裕が豊富にあったた
め、物質文明ではなく精神文化を向上させ、世界に類を見ない精神文化大国にな
っていました。

 しかもその精神文化は、人から与えられるものよりも自らが作り出すものが中
心であり、人から与えられるものでも、茶道や華道や能のように、受け手が想像
力を働かせて自ら参加して楽しむような文化が多かったのです。

 二人目の建売住宅のオジサンはとりあえず無視するとして(^^;)、三人目の都
会のオジサンが、既成の精神文化を享受するという受動的な楽しみ方をしている
のに対して、一人目の農家のオジサンは、自ら精神文化に参加するという能動的
でクリエイティブな楽しみ方をしています。

 そんなオジサンなら、色々と興味深い話をしてくれると思うのです。v(^_-)

                  終わりです     とものり

995. 算額とウェブサイト 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/03(月) 17:10:25
 952番の書き込みで山本先生に紹介していただいた「和算の館
(http://www.wasan.jp/)」のコンテンツを拝見して、東北地方の神社に多くの算
額が残されていることを知り、その理由を少し調べてみたところ興味深いことが
わかりました。

 江戸時代、日本全国で和算が流行し、和算の問題を出し合ってクイズのように
楽しむ知的遊戯が流行しました。

 そして難しい問題を作ったり、難しい問題を解いたりした人達が、それをみん
なに見てもらうために算額を作って神社に奉納したのです。

 当時、本職の和算家ならば和算の本を出版することができましたが、一般庶民
ではそれは非常に難しいことです。そこで算額を作って神社に奉納し、みんなに
見てもらったわけです。

 これはちょうどインターネットのウェブサイトやブログに、自分の趣味やアイ
デアを公開することと似ていて、算額は江戸時代における庶民の情報発信ツール
だったわけです。v(^_-)

 そして驚くべきことに算額に書かれた内容は数学的に高度なものが多く、中に
は西洋数学では100年以上経ってからようやく証明されたような、非常に難解な
定理もあるそうです。

 東北地方の農家では、農閑期の冬の間は大雪で娯楽が少なかったため、娯楽と
して和算が大流行したらしいのです。

 江戸時代の東北地方の農家といえば、従来の教科書的には江戸四大飢饉に代表
されるように飢饉が多く、生きていくのに精一杯の惨めな貧しい生活というイメ
ージがあると思います。

 しかし意外なことに、江戸時代を通じて算額が最も多く奉納されたのは東北地
方であり、その和算文化の担い手の多くは農民だったのです。

 算額が沢山奉納されたということは、それを作った人が多かっただけでなく、
その算額を見て内容を理解できる人が多かったということです。

 何しろ内容を理解できる人が多くなければ、算額を奉納して自慢することなん
かできませんからね。(^^;)

 したがってこれまで抱いていたイメージとは違い、江戸時代の東北地方の農民
は、貧しいながらも精神的に非常に豊かな生活を送っていたようです。

                   続きます     とものり

994. Re[993]:「もう一つの万葉集」を考える 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2011/01/02(日) 00:31:27
>Shin-ichiroさん

 明けましておめでとうございます。頓陳館にご来館いただき、ありがとうござ
います。また興味深いブログをご紹介いただき、ありがとうございました。m(..)m

 僕も李寧煕氏の著作には非常に感銘を受け、当館の雑学コーナーに展示した
「日本語の起源(http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.html)」を
書く時に大いに参考にさせていただきました。

 そこに書いたように僕は、飛鳥・奈良・平安時代の日本語の構造と語源を解明
するためには、この時代における日本と中国大陸・朝鮮半島の歴史的関係と、古
代日本語と古代中国語・古代韓国語に関する幅広く深い知識を総動員する必要が
あると思っています。

 これはちょうど、外来語やカタカナ語や和製英語が沢山ある現代日本語の構造
と語源を解明するためには、江戸時代から明治時代、そして第二次世界大戦後の
アメリカ統治時代を中心とする日本と欧米に関する歴史的関係と、日本語と欧米
語に関する幅広く深い知識を総動員する必要があるのと同様です。

 その意味で、李寧煕氏が行った古代日本語に対するアプローチの仕方と、著作
で提示した画期的な新説には大いに注目しました。

 色々な知識と意見を持つ人達がこのように仮説を立てあって議論することは非
常に有意義なことであり、真理を解明する有効な方法だと思います。

 しかし李寧煕氏の仮説に対して、思い込みと偏見から単に批評だけしたり、誹
謗中傷したりする風潮があったというのは非常に残念です。

 ある仮説に対して別の仮説を立てて反論したり、異論を出したりすることには
大いに意義があり、建設的な議論になります。しかし単に批判だけしたり誹謗中
傷したりするのは、子供が駄々をこねているのと同じで、建設的な議論にはなり
ません。

 実は当館の色々なコンテンツに対しても、ありがたいことにインターネット上
でちらほらと批判してくれる人達がいるそうです。

 しかしそのような人達は、何故か僕に反論のメールをくれたり、この会議室に
反論を書き込み、正々堂々と議論をふっかけてくれることはせず、僕の知らない
ところでこそこそと批判をしているようです。(^^;)

 「日本語の起源」だけでなく、当館に書いたことは僕にとっては全てが作業仮
説であり、それを叩き台にして色々と議論することによって真理を解明するため
の里程標のひとつにすぎません。

 せっかくこちらが議論をしようと餌をまいているのに、その餌に食いつかず、
遠くから眺めて「あの餌はまずいぞ!(-"-)」などとイソップ物語の狐のような
態度でいられたら、苦労して餌をまいた甲斐がないというものです。(^^;)

 などという愚痴はさておき、雑学コーナーに新しく展示した「万葉仮名とロー
マ字(http://www.snap-tck.com/room04/c01/kanwa/kanwa10.html#manyo)」中で
説明した「上代特殊仮名遣い条件異音説」について、李寧煕氏の説を信じる人達
の意見をお聞きしたいものです。(^_-)

 それでは、今後とも当館をよろしくお願いします。m(..)m

                            とものり

993. 「もう一つの万葉集」を考える 投稿者:Shin-ichiro [URL] 投稿日:2011/01/01(土) 06:51:47
明けましておめでとうございます。

万葉集は古代朝鮮語で書かれているということで、20年ほど前に話題になりました、韓国の作家、李寧煕(イ・ヨンヒ)氏の「もう一つの万葉集」に関するブログと掲示板を作りました。

ブログ
http://manyousyu.cocolog-nifty.com/blog/

掲示板
http://manyousyu.1616bbs.com/bbs/

皆様のご訪問お待ちしております。

992. 「ワンダフルライフ」 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/30(木) 14:59:59
・「ワンダフルライフ」是枝裕和監督・脚本、1998年、日本

 ドキュメンタリーとフィクションを融合したファンタジー映画というユニーク
な作品であり、是枝裕和監督の出世作です。

 死者が天国に行く前に人生の中で最も大切な想い出をひとつ選び、それを映像
化するという設定で、プロの役者と一緒に一般人が出演し、自らの大切な思い出
を語るシーンが非常に印象的です。

 それら一般人の訥々とした語りに比べると、プロの役者の語りはどうしても作
り物臭さが鼻についてしまい、正直言って少々白けます。(^^;)

 しかしさすがに由利徹は、アドリブ的演技なのか、素直に地で想い出話をしゃ
べっているのかわからず、実にいい味を出しています。

 また想い出を映像化するシーンは、映画のメイキング映像そのものです。この
シーンに代表されるように、この作品の発想はいかにも映画的です。

 そしてドキュメンタリータッチを多用しながらも、出演者は小田エリカを始め
としてかなり印象的で映画的な風貌をしています。つまり演出はドキュメンタリ
ータッチでありながら、映像は映画的なのです。

 それが是枝監督の資質であり、だからこそこのようなユニークな作品が生まれ
たのかもしれません。

                            とものり

991. 「殯の森」 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/29(水) 10:49:50
・「殯の森」河瀬直美監督・脚本、2007年、日本・フランス

 第60回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した、河瀬直美監督の
作品です。

 例によってドキュメンタリー映画の手法を多用し、グループホームで暮らす人々
の日常と表情が淡々と描かれています。

 出世作である「萌の朱雀」よりも多少は劇的なストーリーがありますが、やは
りストーリー展開よりも、グループホームで暮らす老人達の日常と表情を撮るこ
との方が主眼と思われる作品です。

 「萌の朱雀」ではまだ初々しい高校生だった尾野真千子が、”巧まざるユーモ
ア”ならぬ”巧まざるエロス”を感じさせているところに、「萌の朱雀」からの
年月を感じてしまいました。(^^;)

 西川美和監督の作品からは男っぽさのようなものを感じ、エロスはほとんど感
じませんが、河瀬直美監督の作品からは女っぽさやエロスを感じます。

 これはストーリーテイラーとドキュメンタリー作家という資質の違いだけでな
く、何となく二人の監督の性格の違いに起因しているような気がします。

                            とものり

990. Re[989]:初詣オフのご案内 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/24(金) 15:42:47
>NEGIさん

 また初詣オフの季節がやってきましたね!

 今年の正月は下の娘が二人の子供を連れて里帰りしてくる予定なので、残念な
がら初詣オフには参加できそうもありません。(~o~)

 娘はまだ産後の回復期なので、”二児のジジ(^^;)”としては孫の世話でてん
てこ舞いになりそうです。

 11月に娘と孫が里帰りした時は、やり慣れない家事と赤ん坊の世話で疲れ果て、
娘と孫が家に帰って行ったとたんに疲れがドッと出て風邪でダウンしてしまいま
したよ。(^^;)

 とゆーことで、オフに参加した旧友達によろしく伝えてください。m(..)m

                        とものり

989. 初詣オフのご案内 投稿者:NEGI 投稿日:2010/12/24(金) 10:50:37
お忙しいところご無礼いたします。
ちょいと宣伝をば

初詣オフのご案内

ご無沙汰しております、NEGIであります

さて
A&E唯一の恒例(高齢?)オフとなりました、初詣オフのご案内です。
年の始めに神社に詣で、また旧交を温めあいませんか。
お互いの傷を舐めあうってのも今回特別に許可したりします。(笑)
てなわけで下記

              記
日時    平成23年1月3日午後1時半より
場所    尾陽神社 地下鉄「荒畑」駅より徒歩5分
費用    1000円お守り付

 *ご祈祷後流解散とします。
 *メアド不明で戻ってきてしまうメールが増えてしまって往生こいてます。
 *ぜひ昔のお仲間もお誘い下さいます様お願い致します。

ありがとうございました。

988. 統計のマジック 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/22(水) 15:18:46
 社会統計結果の誤解と関連して、統計結果を恣意的に曲解させ、人にインパク
トを与える手口を少し公開してしまいましょう。

 これは僕の飯の種でもあるので、身を削って書き込む”カツオブシ・ネタ”で
す。(^^;)

 ある病気がかかりやすい病気かどうかを表す場合、普通は1年間でその病気に
かかった人数を人口で割ってパーセントで表示します。

 例えば発症率が10%なら、1年間に人口の10%の人がその病気にかかることに
なります。このため病気の発症率はその病気のかかりやすさを表す危険性の大き
さ、つまり「リスク」と解釈することができます。

 心臓病は、タバコを吸っていない人の発症率よりも、タバコを吸っている人の
発症率の方が高く、タバコは心臓病の「危険因子(リスクファクター)」であると
言われます。

 仮にタバコを吸っていない人の発症率が10%で、タバコを吸っている人の発症
率が20%だとしたら、タバコを吸うことによって心疾患になる危険性が10%上昇
することになります。

 ところが、心臓病の実際の発症率は非常に低くて1%以下です。そしてタバコ
を吸うと、発症率が2%弱に上昇します。

 つまりタバコを吸っていない人が100人いると、その中の1人だけが心臓病にか
かり、タバコを吸うと心疾患にかかる人が1人増えて2人になるだけです。

 これでは、いくら医者が「心臓病にかかる危険性が1%高くなるから、タバコ
は止めなさい!(-"-)」と警告しても、多分、効果は薄いでしょう。(^^;)

 そこで病気の発症率が低い時は、発症率の比を計算し、それを「相対危険度」
と呼んでリスクファクターの指標にします。

 心臓病の場合では、タバコを吸っている人の発症率2%を、タバコを吸ってい
ない人の発症率1%で割り、「タバコの相対危険度は2である」と表現します。

 これならば、医者は「心臓病にかかる危険性が2倍になるから、タバコは止め
なさい!(-"-)」と警告して、相手を脅すことができます。

 どちらの警告も実は全く同じ内容ですが、相手に与えるインパクトの大きさは
まるで違うと思います。

 このように発生率が非常に低い現象の場合は、発生率がどの程度高くなるかで
はなく、発生率が何倍になるかという相対危険度を用いると、人にインパクトを
与えることができます。

 また自殺や交通事故死のように発生率がもっと低い現象の場合は、発生率では
なく実数そのものを用いると、人にインパクトを与えることができます。

 例えば「自殺率は0.02%である」と表現するよりも、「自殺者が3万人もいる!」
と表現する方が人にインパクトを与えることができます。

 このことから、マスコミが「××の人が○○名もいる!」と大げさに問題視し
している時は、それは本当は発生率が非常に小さく、現実にはほとんど問題にな
らないと考えて良いことがわかると思います。

 またマスコミが「△△すると××の危険性が○○倍にもなる!」と警告してい
る時は、それは発生率が小さく、あまり気にする必要はないと考えて差し支えな
いこともわかると思います。

 ただし「××」が死亡や重篤な病気で、しかも警告しているのがマスコミでは
なく医者だったら、やっぱりある程度は気にした方が身のためでしょう。(^^;)

                            とものり

987. 社会統計結果の曲解と誤解 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/19(日) 21:06:57
 スポーツ振興プロジェクト・市民公開講座の後半は、「スポーツの持つ力の再
発見」というテーマでパネルディスカッションが行われました。

 パネリストはハンマー投げ選手の室伏広治氏、北京オリンピック競泳メダリス
トの宮下純一氏、ソシオ成岩スポーツクラブマネジメントディレクターの榊原孝
彦氏、日本スポーツ振興センター理事長で元体操選手の小野清子氏というけっこ
う豪華なメンバーで、テレビ朝日アナウンサーの宮嶋泰子氏がコーディネーター
として司会進行役を務めていました。

 新聞社と日本スポーツ振興センターが主催し、文部科学省が後援する市民公開
講座ということで、岡田元監督の講演に比べると当たり障りのない(^^;)一般論
的な内容でした。

 ただ、その中で少し気になったことがありました。

 それは「1年間の自殺者が3万人を越すという事実に象徴されるように、今の日
本は”生き甲斐”を見つけにくい閉塞感のある社会であり、その中でスポーツが
果たす役割は大きい」という、マスコミにありがちなステレオタイプの論調でし
た。

 生き甲斐を見つけるためにスポーツが果たす役割の大きさには大いに同感です
が、生き甲斐を見つけられないことが自殺者の増加の原因であるという主張が見
当違いのものであることを、一応、統計学を飯の種にしている僕は知っているつ
もりだからです。

 日本の総死亡率は、明治後半から大正にかけては約2%(2000人/人口10万人)
前後でしたが、昭和に入ると徐々に低下し始めて、第二次世界大戦後に急激に低
下し、昭和50年(1975年)以後は約0.7%(700人/10万人)前後で比較的安定してい
ます。

 しかし自殺による死亡率は、多少の凸凹はあるものの、明治後半から現在まで
約0.02%(20人/10万人)前後であまり変わっていません。

 人口の増加に伴って自殺者の実数は時代と共に増加していますが、自殺率は実
はあまり変わっていないのです。

 ただし第二次世界大戦後は、昭和33年前後、昭和61年前後、そして平成15年か
ら現在にかけて自殺者が多く、自殺率に3つのピークがあります。

 自殺の最大原因は病気などの健康問題であり、次が経済問題、そしてその次が
恋愛問題や家庭問題です。

 そして、どの時代でも人には3つの自殺適齢期(^^;)があります。

 最初は悩み多き青年期、次が仕事でも社会でも大きな責任を負わされる中年期、
最後が健康問題で悩まされる老年期です。

 自殺の原因は青年期ではやはり恋愛問題が多く、中年期は健康問題と経済問題、
そして老年期は過半数が健康問題です。

 昭和33年前後のピークと61年前後のピークは、戦後日本の好景気の合間の不景
気な時期に相当し、ここに他の世代を圧倒するほど人数が多い第1次ベビーブー
ム世代、いわゆる”団塊の世代”の青年期と中年期が重なり、さらに61年前後は
団塊の世代の子供世代である第2次ベビーブーム世代の青年期が重なってピーク
になったものです。

 そして平成15年から現在まで続いている第3のピークは、団塊の世代の老年期
に、第2次ベビーブーム世代の中年期が重なったもので、このピークは団塊の世
代が自殺適齢期を過ぎるまで、つまりこの世代の人達の大半が死亡するまで(^^;)
続くと予想されています。

 自殺率の増加は、単に人数が非常に多い第1次・第2次ベビーブーム世代が自殺
適齢期になり、自殺者の絶対数が増えたことが原因であり、”生き甲斐のない社
会”といった社会情勢とはあまり関係がないのです。

 自殺率に限らず、人数が非常に多い団塊の世代がこういった社会統計結果に及
ぼす影響は実に大きいものがあります。

 そのため一見するとまるで社会現象のように思える現象も、よく調べると単に
団塊の世代がその現象の適齢期になっただけだった、ということがけっこうあり
ます。

 しかしマスコミはそこまで詳細な分析はしないため、表面的な統計結果だけを
見て、「今の日本の社会にはこんな問題がある!」などと、もっともらしい理屈
をつけて社会問題として論じたがります。

 このように、マスコミがもっともらしく論じる”社会問題”は、たいてい社会
統計結果の意識的な曲解または無意識の誤解と思って間違いありません。(^^;)

                            とものり

986. 元日本代表監督・岡田武史氏の講演 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/17(金) 11:59:39
 風邪でダウンする前のことですが、スポーツ振興プロジェクト・市民公開講座
が開催されたので参加してきました。

 元サッカー日本代表監督・岡田武史氏が基調講演をするというので、それをお
目当てにして申し込み、幸運にも競争率4倍の難関をくぐり抜けて参加すること
ができました。(^o^)/

 岡田元監督の講演は、主催者の顔を立てて(^^;)、一応「日本をスポーツの国
にするために」という題でしたが、内容は期待通りワールドカップ・南アフリカ
大会のことが中心でした。

 岡田元監督はマスコミ嫌いのためマスコミに対しては無愛想ですが、何しろ関
西人ですから本当はサービス精神旺盛であり、非常に興味深い話をユーモアとギ
ャグを交えて楽しそうに語ってくれました。

 その話があまりに面白かったので、後半のパネルディスカッションを中止して、
最後まで氏に講演を続けてもらいたいと(多分、参加した人の大半が(^_-))思っ
たほどです。

 特に、マスコミ情報について氏が語った苦労話は印象に残りました。

 氏は、最初に代表監督をしたフランス大会の時にマスコミの雑音にやたらと悩
まされたので、監督をしている間はマスコミ情報は一切見ない・聞かない方針な
のだそうです。

 ところがお節介な友人や知人がいて、氏の携帯電話に「誰それがテレビでこれ
これのことを言っていたが、気にするな!(←気にしとらんわい!凸(-"-メ))」
とか、「新聞に無茶苦茶書かれていたが、大丈夫、自信を持て!(自信は十分持
っとるわい!凸(-"-メ))」といったメールがやたらと入り、ありがた迷惑でうん
ざりしたそうです。(^^;)

 代表監督というのは、ちょうどファンで満席のジャンボ旅客機の機長のような
ものでしょう。

 一般客であるファンは、自分では飛行機の操縦なんてできないくせに(むしろ
操縦できないからこそ、つまり自分では監督も選手もやれないからこそ(^_-))、
「この機長は操縦がヘタクソだ!」とか、「こんな操縦では今に墜落するぞ!」
などと身勝手な文句を言い、中には飛行機オタクや評論家気取りがいて「この機
種の特徴はこれこれだから、こういった操縦をすべきだ!」などと半可通的な文
句をつけ、さらに元機長や元クルーといったクロウト客(つまり監督経験者や元
選手)がいて、「現在の飛行状況はこれこれと分析できるから、機長は○○を×
×しなければならない!」などと専門的な文句をつけたりします。

 しかし実際には機長の経験が最も長く、しかも最も優秀な成績を残してきたの
は他ならぬ現在の機長であり、この機長よりも優れた機長は日本にはいません。

 だからこそ前の機長が急病で倒れた緊急時に、ジャンボ機の命運を託されて機
長役を引き受けたのです。

 そういった自負がある機長にしてみれば、自信と信念を持って操縦しているに
もかかわらず、シロウトの一般客や、自分よりも経験も実績も劣る元機長や元ク
ルーに”上から目線”で文句をつけられるのは、うざったくて腹立たしいことで
しょう。

 岡田元監督の講演を聴いて確信したことは、今年、日本で一番真剣に代表チー
ムと代表選手とワールドカップ・南アフリカ大会のことを考えていたのは、やっ
ぱり岡田元監督だったということです。(^_-)

                            とものり

985. 風邪でダウン 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/12(日) 12:34:47
 先週の日曜日(5日)、何となく喉がいがらっぽくなって咳が出たので、風邪か
なと思っていたら、次第に症状が悪化して、木曜日(9日)の夜についに発熱し、
金曜日と土曜日はダウンしていました。(~o~)

 会社勤めの時は風邪を引いても熱を出して寝込むことはほとんどなく、10年に
1度くらいインフルエンザのような症状で高熱が出て、やっと寝込む程度でした。

 しかし会社を辞めてフリーランスになってからは、毎年、風邪でダウンしてい
ます。

 やはり会社勤めの時は気が張っていて、気合で風邪を押さえ込んでいたのかも
しれませんし、単に年を取って抵抗力が弱くなっただけかもしれません。(^^;)

 多分、その両方の相乗効果で、フリーランスになってから毎年風邪でダウンす
るようになってしまったのでしょう。

 会社勤めの時は仕事を最優先し、自分の健康は二の次だったのが、フリーラン
スになって自分の健康に気を使い、仕事を二の次にするようになってから、やた
らと病気をするようになったの何とも皮肉です。(^^;)

 やはり人間、甘やかされた環境よりも、厳しい環境の方が逞しくなるようです。

                            とものり

984. 「善き人のためのソナタ」 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/12/07(火) 17:24:41
・「善き人のためのソナタ(Das Leben der Anderen)」フローリアン・ヘンケル・
フォン・ドナースマルク監督・脚本、2006年、ドイツ

 東西ドイツ統一前後の東ドイツを舞台にした、味わい深い人間ドラマの秀作で
す。

 良く練られた脚本と全編にみなぎる静かな緊張感、そして国家保安省(シュタ
ージ)のエリート捜査官を淡々と演じる主演のウルリッヒ・ミューエが実に巧く、
ラストカットの彼の一言のセリフと表情には、思わず涙ぐんでしまうほど感動し
ました。

 それから思いがけずこの作品に、「マーサの幸せレシピ」で生真面目な女性シ
ェフを好演していたマルティナ・ゲデックが出ていました。

 この作品では妖艶で少し自堕落な魅力溢れる大人の女優を演じていて、最初は
彼女とはわからないくらいイメージが違うのでビックリし、彼女の演技力に感心
してしまいました。

 この作品といい、ヴォルフガング・ベッカー監督の秀作「グッバイ、レーニン!
(http://www.snap-tck.com/room01/c02/cinema/cinema.html)」といい、やはり
激動の歴史を経験した国からは味わい深い傑作が生まれるようです。

                            とものり

983. 万葉仮名とローマ字−その5 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/24(水) 08:37:44
 ちなみに、ローマ字国字論は第二次世界大戦後にも流行します。

 この時はGHQの命を受けたアメリカ教育使節団が、漢字の習得に時間がかかる
ことが日本の民主化を遅らせている原因だから、漢字を廃止してローマ字を国字
にするべきであると主張し、”進歩的かつ民主的(^^;)”なことを標榜する新聞
社など多くのマスコミもこの主張に賛成しました。

 しかし明治時代も第二次世界大戦後も、ローマ字国字論は民衆の支持を得られ
ず、公認されませんでした。

 おそらく飛鳥時代や奈良時代にも、ローマ字国字論と同じように、”唐かぶれ”
の知識人達が「漢字国字論」や「万葉仮名国字論」を主張したのではないかと思
います。

 しかし当時の権力者が国の公文書を漢文と万葉仮名にしたのとは対照的に、民
衆は漢字の一部を取ってカタカナを発明したり、漢字を崩してひらがなを発明し
たりして、漢字仮名混じり文という和唐折衷の表記体系を発明しました。

 それと同様に明治時代にも、民衆はローマ字国字論を支持する代わりに、アル
ファベットやローマ字や外来語を独自の方法で消化吸収し、従来の表記体系にう
まく取り入れて日本語の表現を豊かにしてきました。

 これらはまさに、外来の文物をそのまま真似するのではなく、巧みに換骨奪胎
して日本化することが得意な日本人の面目躍如たるところです。

 「和製英語やカタカナ語は欧米では理解されないニセモノである、そのような
マガイモノの外来語は外国語の正しい習得を妨げ、美しい日本語が乱れるから排
除すべきである!p(-"-)」と主張する知識人が沢山います。

 しかし中国から取り入れた漢字と多くの単語、そして和製漢字である国字は既
に確固たる日本語になり、オランダやポルトガルの言葉を日本語化した外来語は
既に立派な日本語になって日本語の表現を豊かにしています。

 そしてそれらの漢字や外来語を使用したために、中国語やオランダ語やポルト
ガル語の正しい習得が妨げられたという話は聞きません。(^^;)

 そもそも現在では、漢字が中国から取り入れられたことはほとんどの人が知っ
ているでしょうが、どの漢字が日本でできた国字であり、どの言葉が日本語化し
た外来語であるのかは知らない人が多いと思います。

 しかしそれらの日本語化した外来語も、取り入れた当初は頭の固い知識人から
ニセモノとかマガイモノと非難され、「外国語の正しい習得が妨げられる!」と
か「美しい日本語が乱れる!」と反発されたことでしょう。(^^;)

 和製英語もカタカナ語も日本に向くかどうかで取捨選択され、次第に日本語化
して日本語の表現をより豊かにしつつあります。

 これらの外来語は長い年月の間に淘汰され洗練されて、やがて日本独自の和洋
折衷文化として定着していくことと思います。

                  終わりです     とものり

982. 万葉仮名とローマ字−その4 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/23(火) 12:08:57
 西洋の文化が大量に入ってきた明治時代にも、万葉仮名とカタカナ・ひらがな
の関係と似たことが起きています。

 1867年にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンは、日本語を表記する
ためにヘボン式ローマ字を発明しました。

 そしてその後、日本人が考案した日本式ローマ字が1937年に訓令式ローマ字と
して公認され、さらに1954年に少し改変して改めて訓令式として公認されました
(現在でも、日本の標準として公認されているローマ字表記法は訓令式です)。

 ヘボン式ローマ字では「シ」をshi、「チ」をchi、「ツ」をtsu、「フ」をfu、
「ジ」をjiと表記します。しかし訓令式ローマ字では、これらはsi、ti、tu、hu、
ziと表記します。

 shi、chi、tsu、fu、jiはそれぞれsi、ti、tu、hu、ziの条件異音であり、日
本語よりも音韻体系が複雑な英語を母国語とするヘボンは、これらの条件異音を
聞き分けて表記したのです。

 それに対してこれらの条件異音を区別できない(または区別する必要のない)日
本人は、より単純で首尾一貫した形式の表記法を用いたわけです。

 いわばヘボン式ローマ字が万葉仮名に相当し、訓令式ローマ字がカタカナやひ
らがなに相当するといえるでしょう。

 ある言語の表記体系を外国人が自国の文字を用いて作ることは、よくあること
です。その際、その言語を母国語とする人は区別していない発音を、外国人が聞
き分けて別々の表音文字で書き分けるという現象がしばしば起こります。

 例えばインドネシア語のアルファベット表記体系をオランダ人が作った時とか、
ベトナム語のアルファベット表記体系をポルトガル人が作った時などにそのよう
な現象が起きたそうです。

 明治時代の”西洋かぶれ”の知識人達は、日本よりも西洋の方が”文明が進ん
でいる”のは、日本では膨大な数の漢字を習得するのに時間がかかるのに対して、
西洋では少数のアルファベットを短時間で習得できるからである、したがって漢
字を廃止し、ローマ字を国字にすれば西洋文明に追いつくことができる、という
「ローマ字国字論」を主張しました。

 仮にこの主張が認められて日本の国字がローマ字になり、漢字とカタカナとひ
らがなが廃止されたとします。

 そしてその事情が全て忘れられてしまった後世に、明治時代以後のローマ字で
書かれた文献を研究した後世の言語学者は、明治時代に存在したshi、chi、tsu、
fu、jiという音が、わずか70年ほどでsi、ti、tu、hu、ziという音に変化してし
まったと考えることでしょう。

                続きます        とものり

981. 万葉仮名とローマ字−その3 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/22(月) 08:13:06
 吏読は、名詞などの実質的部分は主に漢語を用い、助詞などの文法的部分は万
葉仮名と同じように漢字の音だけを借りて古代朝鮮語を表す表記法で、文法的部
分は小さな漢字で表すのが普通でした。

 これとほとんど同じ表記法が上代日本にもありました。それは天皇の宣命や神
社の祝詞などを表記するための、「宣命書(せんめいがき)」と呼ばれる表記法で
す。

 宣命書は、例えば「日嗣定賜弊流皇太子授賜久止宣(日嗣と定め賜へる皇太
子に授け賜はくと宣る)」といった具合に、実質的部分は漢語を用い、文法的部
分は万葉仮名を用いて小さな文字で表記します。

 この宣命書の万葉仮名をカタカナに変えたものが後の漢字仮名交じり文であり、
平安時代以後、日本語の基本的な表記法になっていきます。

 吏読は3世紀頃に始まって7世紀頃に確立し、19世紀末まで用いられていました。
つまり表記法が確立するまでに400年近くかかっていることになります。

 それに対して万葉仮名は7世紀頃に始まり、8世紀の奈良時代には既に確立して
います。この異常に短い確立までの期間は、既に確立していた母国の吏読を参考
にして、朝鮮渡来人が万葉仮名を発明したと考えれば納得がいきます。

 そもそも日本に漢字を伝えたのは古代中国や古代朝鮮からの渡来人であり、漢
字伝来の初期には、漢字の読み書きができたのはほとんど渡来人に限られていま
した。

 そして吏読による朝鮮語表記法の知識のある朝鮮渡来人にとって、言語の構造
が朝鮮語とよく似ており、しかも音韻体系がより単純な日本語を漢字で表記する
ために万葉仮名を発明するのは、容易でかつ自然なことだったでしょう。

 つまり万葉仮名は朝鮮渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、平
安時代初期になって、ようやく日本人がカタカナとひらがなを発明して自らの言
葉を表記する方法を編み出したというわけです。

                続きます        とものり

980. 万葉仮名とローマ字−その2 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/21(日) 11:04:05
 実は、8母音説には大きな難点があります。それは3つの母音が消滅するまでの
期間が短すぎるという点です。

 平安時代初期に作られた表音文字のカタカナとひらがな、そして日本語の音韻
表に相当する50音図には5つの母音しかありません。したがって万葉仮名が使用
されていた奈良時代から、わずか50年ほどで3つの母音が消滅してしまったこと
になります。

 これは、母音の消失期間としては言語学の常識では考えられないほど短い期間
だということです。

 しかし条件異音説にしたがえば、万葉仮名は条件異音を聞き分けることができ
た朝鮮渡来人が発明して使用したものであり、カタカナとひらがなは条件異音を
同じ音として認識していた日本人が発明して使用したものであるということにな
り、この難点は解消されます。

 そして万葉仮名が朝鮮渡来人によって発明され、記述されたのなら、万葉仮名
で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があり、後世の日本人がそれら
を解読できないことも納得できます。

 また万葉仮名は古代朝鮮の表記法である「吏読(イドウ)」を参考にして作られ
たという説がありますが、万葉仮名を発明したのが朝鮮渡来人だったとすれば、
この説は当然のことと納得できます。

                続きます        とものり

979. 万葉仮名とローマ字−その1 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/20(土) 08:24:40
 奈良時代に使われていた万葉仮名では、同じi、e、oという母音を持つ音が甲
類と乙類の2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記さ
れています。

 このような特殊な仮名遣いを「上代(奈良時代頃)特殊仮名遣い」といい、上代
日本語(奈良時代およびそれ以前に使用されていた日本語)を研究するための重要
な資料になっています。

 当館の「日本語の起源(http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.html)」
に書いたように、現在は「上代日本語には8種類の母音があった」という8母音説
がほぼ定説になっていて、僕も以前はこの説を信じていました。

 しかし「日本語の起源」に対して、韓国の研究者と共同で古代朝鮮語と上代日
本語の関係を研究されている研究者の方から、8母音説に反対する説を紹介して
いただき、今ではそちらの説の方を信じています。(^^;)

 それは「上代特殊仮名遣いとは、古代朝鮮からの渡来人が上代日本語の条件異
音を聞き分けて書き分けていたものであり、上代日本語には基本的に5つの母音
しかなかった」という条件異音説です。

 条件異音とは、前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象の
ことです。

 例えば日本語の「ン」の発音にはいくつかの種類があり、後に続く子音によっ
てきちんと言い分けられています。

・両唇鼻音[m]…後に続く子音が唇音[p,m,b]の時。例:アンマ[amma]
・歯茎鼻音[n]…後に続く子音が歯茎音[n,d,t,ts,d,dz]の時。例:あんた[anta]
・軟口蓋鼻音[ng]…後に続く子音が軟口蓋音[k,g]の時。例:感化[kangka]
・口蓋垂鼻音[N]…文末や語末の時(軟口蓋鼻音になる時もある)。例:本[hoN]

 日本語を母国語とする人はこれらの条件異音を無意識のうちに言い分け、同じ
音として認識するため、同じ表音文字「ン」で表記します。

 ところが英語圏などではこれらの条件異音は別々の音として認識されるため、
別々の表音文字で表記されます。

 それと同様に、上代日本語の3つの母音i、e、oには条件異音があり、日本語を
母国語とする人はそれらを区別していなかったが、母音が多い古代朝鮮語を母国
語とする朝鮮渡来人は、それらの条件異音を聞き分けることができたため別々の
万葉仮名で表記した、というのが条件異音説です。

                続きます        とものり

978. 藤原仲麻呂の乱(孝謙上皇の乱) 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/18(木) 12:03:03
 藤原仲麻呂(恵美押勝)といえば天皇に反乱を企てた大逆賊のイメージがあり、
奈良時代を背景にした物語では必ず強面の敵役になります。

 しかし”藤原仲麻呂の乱”に関する資料を詳しく調べてみると、本当は”孝謙
上皇の乱(^^;)”であり、仲麻呂=大逆賊のイメージは乱の勝者側によって作ら
れた虚構であることがわかります。

 乱の当事者である仲麻呂と孝謙上皇(聖武天皇の娘)は従兄弟同時であり、最初
のうちは仲が良かったそうです。

 ところが上皇の母である光明皇后が、大炊王(後の淳仁天皇、仲麻呂が擁立)に
天皇位を譲位するよう彼女に強く薦めたことから、彼女と淳仁天皇&仲麻呂との
関係が悪化し始め、光明皇后が死去すると両者の関係はますます悪化します。

 そんな時、病気になった上皇を弓削氏の僧・道鏡が看病したことから、彼女は
道鏡を寵愛し、彼の言うことは何でも信じるようになります。

 それを心配した淳仁天皇が上皇を諌めると、彼女は激怒し、「天皇は恒例の祭
祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」という前代未聞の宣言を
します。

 しかし淳仁天皇はその馬鹿げた宣言を無視し、その後も大事と賞罰を行い続け
ました。そこで上皇と道鏡は、反淳仁天皇&仲麻呂派の豪族を味方に付けて密か
に反乱計画を立て始めます。

 そして道鏡の弟の弓削浄人を将軍にして軍備を整えた後、764年9月11日、いき
なり軍を出動させて皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を奪い取り、淳仁天皇を拉致・
幽閉するというクーデターを起こします。

 これを知った仲麻呂が事情を質すために息子の訓儒麻呂を派遣すると、上皇側
は問答無用と彼を射殺し、次に派遣された中衛将監矢田部老も射殺してしまいま
す。

 それを知った仲麻呂は一族を連れて平城京から脱出し、彼が長年国司を務めて
いた近江国を目指します。しかし時すでに遅く、用意周到に各地に派遣されてい
た上皇側の軍隊に行く手を阻まれ、ついに琵琶湖の沿岸で討ち取られ、彼の家族
も皆殺しにされてしまいます。

 首尾良くクーデターを成功させた上皇は、淳仁天皇&仲麻呂派の役人を粛清し
て道鏡一族を重用し、淳仁天皇を淡路国に島流しにして自ら天皇に即位します。

 そしてそれ以後、孝謙上皇改め称徳天皇と道鏡による独裁政治が行われること
になります。

 ”勝者の歴史書”である日本書紀には、仲麻呂に反乱の企てありと密告通知を
受けた上皇が、反乱を阻止すべく先手を打って仲麻呂を攻撃したと記述されてい
ます。

 もし上皇と淳仁天皇が権力を握っていて、それに対して反乱を企てた仲麻呂を
上皇側が攻撃して淳仁天皇を守ったのなら、その記述で理屈が通ります。

 しかし実際には権力を握っていたのは淳仁天皇と仲麻呂であり、それに対して
仲麻呂を攻撃して一族を滅ぼし、淳仁天皇を島流しにして自分が天皇に返り咲い
たのですから、クーデターを起こしたのは明らかに上皇側です。

 クーデター後、称徳天皇と道鏡が善政を行ったのなら、まだ言い訳のしようが
あります。しかしこの二人がその後に行ったことは、どう考えても無茶苦茶です。

 クーデターから5年後の769年、宇佐八幡宮に「道鏡が皇位に就くべし」という
驚くべき御神託が下り、これを盾にして称徳天皇は道鏡を天皇にしようとします。

 当然、その馬鹿げた御神託が真っ赤な偽物であることを証明し、道鏡の天皇即
位を阻止しようとした人達(有名な和気清麻呂等)がいましたが、称徳天皇は激怒
して彼等を処罰します。そしてその後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営
します。

 これが有名な「宇佐八幡宮神託事件」です。どうやら、道鏡の権力欲は称徳天
皇の後見役だけでは満足しなかったようです。

 しかしこの事件の翌年、さすがに天罰が下ったのか(^^;)、称徳天皇が崩御し
て計画は頓挫し、後ろ盾を失った道鏡は失脚してしまいます。

 いつの時代でも権力と似非宗教(僕的には、権力に擦り寄る宗教は全て似非で
す)の組み合わせからは、多くの人間の血で彩られた禍々しいカクテルが作り出
されるものです。

 孝謙上皇の乱は権力欲にかられた者同士の権力争いでしたから、庶民は直接的
な犠牲にならなかったのが不幸中の幸いといったところでしょうか。(~o~)

                            とものり

977. 鑑真和上の伝説 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/16(火) 18:15:26
 鑑真和上といえば、日本の招きに応じて自ら渡日を決意し、度重なる渡航失敗
でついには失明するという苦難を乗り越えて来日し、唐招提寺を建立して仏教の
普及に尽くしたということで有名です。

 若い頃、僕も井上靖の名作小説『天平の甍』を読んで、鑑真和上の高邁な人柄
と不撓不屈の精神に感動したものです。p(ToT)

 ところが残された資料を色々と調べてみると、どうやら鑑真和上は日本に来て
から失明したようで、これは歴史学者の間ではある程度常識になっているような
のです。w('o')w

 鑑真和上が日本に来てから書いた直筆の手紙が残っていて、それは目が見えて
いなければ書けないほど見事に字と余白のバランスが取れていますし、鑑真和上
が仏教を教えているところを描いた絵巻物には目がしっかりと描かれています。

 実は鑑真和上が渡航の失敗によって失明したという記録は、日本に同行した弟
子の思託が書いた鑑真和上の伝記である『大和上伝』にしか記されておらず、同
時代の他の資料には記されていないのです。

 後に『大和上伝』を基にして淡海三船が『唐大和上東征伝』を書き、井上靖が
『天平の甍』を書き、それらが世間で広く読まれたため、”鑑真和上は失明を乗
り越えて来日した”という伝説が巷に定着したようなのです。

 井上靖は鑑真和上に関する資料を色々と調べていますから、彼が日本に来てか
ら失明したことをおそらく知っていたと思います。

 しかし小説のストーリー上の効果を考えて、鑑真和上の伝説をあえて覆すこと
はしなかったのでしょう。

 思うに、弟子の思託は師のことを非常に深く敬愛していて、師の偉大さを強調
するために、ついつい事実を脚色してしまったのだと思います。そしてその心情
は、僕にも良くわかるような気がします。

 鑑真和上が唐で失明しようと日本で失明しようと、彼が成し遂げた事の価値は
全く変わりませんし、彼の不撓不屈の精神に瑕がつくことはありません。

 これは僕のロマンチックな思い込みですが(^^;)、鑑真和上本人は、自分のこ
とを必要としている人々が日本にいることを知り、誠意を持ってそれに応えよう
としただけであり(こういった人物の誠意は、しばしば命懸けと同義になります)、
それに対する賞賛や名声は望んでいなかったと思います。

 だから思託の気持ちは良く理解できるものの、柄のない所に柄を付けてまで鑑
真和上の偉大さを強調するのは、できれば避けて欲しかったような気もします。

 鑑真和上と同じように、ブッダやキリストといった人達も、自分が信じること
を誠意を持って行っていただけであり、決して名声や賞賛や権力を望んでいたわ
けではないでしょう。

 しかし彼等に心酔した弟子達が、師の偉大さを強調したいあまり、ついつい事
実を脚色した伝記を書き、それが数々の奇跡を行ったという超人伝説や神の子伝
説になって広まっていったのでしょう。

 自分の教えが後に政治と権力に利用され、教えとは正反対に多くの戦争の原因
になり、幾多の人間の血が流されたことを知ったならば、ブッダもキリストも大
いに嘆き悲しみ、教えを広めたことを後悔することでしょう。(~o~)

                            とものり

976. 奈良時代の礼 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/12(金) 13:05:25
 飛鳥時代や奈良時代は、建物や政治形態だけでなく風俗習慣まで唐のものを取
り入れようとしました。

 例えば、礼の作法として唐式の「揖礼」という作法を取り入れました。これは
立ったまま両手を前で組んで頭を下げ、組んだ両手を胸または頭の高さまで上げ
る立礼で、中国の歴史ドラマなどでよく見かけます。

 古代日本の礼は平伏叩頭(へいふくこうとう)つまり土下座か、ひざまずいて頭
を垂れる姿勢でした。

 相手よりも身を低くして頭を下げ、無防備な体勢を取るのは服従の姿勢であり、
多くの動物に共通する本能的なボディランゲージです。

 そのため土下座やひざまずいて頭を垂れる姿勢は、どんな民族にも共通する服
従や礼の姿勢になっています。

 古代中国でも平伏叩頭が正式な礼であり、損礼は略式の礼とされていました。

 古代日本には損礼のような立礼の習慣はありませんでしたが、唐の風俗習慣を
積極的に取り入れ始めた飛鳥時代から、貴族階級では損礼が行われるようになり
ます。

 しかし庶民は相変わらず土下座を行っていたため、業を煮やした天武天皇が
682年に「土下座を禁止して立礼に統一せよ」というお節介な勅命(^^;)を下しま
す。

 それによって立礼が普及しますが、庶民の間では両手を前で組まない単なる立
礼つまりお辞儀に変化するとともに、土下座も根強く残りました。

 その証拠に天武天皇の勅令から1300年以上経った現在でも、普段はふんぞり返
って威張っている(これは多くの動物に共通する威嚇の姿勢です(^_-))代議士が、
選挙になるとやたらと土下座をするようになります。(^^;)

 明治時代になると、やはり建物や政治形態だけでなく風俗習慣まで西洋のもの
を取り入れようとし、挨拶の作法として握手やハグ(抱擁)を取り入れようとしま
した。

 しかし立礼と違って、握手やハグは現在に至るまで普及していません。これは
日本の風土と密接な関係があります。

 日本は高温多湿で汗を多量にかくため、人と人が体を接することを敬遠し、相
手との間に微妙な距離を置くことを礼儀にしてきました。

 それは人と人が過剰にスキンシップすることを、湿気を表現する時と同じよう
に「ベタベタする(~~;)」と表現することからもわかります。

 また古代の日本人は血液や汗を介して病気が感染したり、人と接触することに
よって病気が感染することを知っていたので、無闇に人と接触することを嫌いま
した。

 それは人の血液が付着したり、病気の人に触れたりすることを「穢れる」と呼
んで忌み嫌っていたことからもわかります。

 そのため日本ではスキンシップがあまり発達せず、握手やハグという習慣は普
及しませんでした。

 そもそも風俗習慣は風土と密接に関係しています。それを無視して風土が異な
る外国の風俗習慣をそのまま真似るのは、どだい無理というものです。

 そのことは、クソ暑くて湿気が多い日本の真夏に、クーラーのない蒸し暑い部
屋で握手やハグをしてみればすぐに納得できます。(^^;)

                            とものり

975. 春日と飛鳥 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/10(水) 21:13:55
 「大和」を「やまと」と読むのと同様に、春日大社の「春日」を「かすが」と
読むのも歴史的な由来があります。

 春日(はるひ)は本来は霞(かすみ)にかかる枕詞で、春霞のことでした。

 それがやがて春日大社がある土地の地名にも使われるようになり、「春日(は
るひ)の霞処(かすがみ、霞がかかる処)」とか「春日の神住所(かすが、神の住む
処)」と呼ばれるようになり、ついには「春日」だけで「かすが」と読むように
なったのです。

 これと同様に、「飛鳥(あすか)」も本来は「飛ぶ鳥の明日香(あすか)」という
ように地名の枕詞だったものが、いつの間にか「飛鳥」だけで「あすか」読むよ
うになったのです。

 そして「あすか」の語源は「安宿(あすく)」であり、「空を飛ぶ臆病な鳥でも
安心して羽根を休めることができる土地」という意味だと言われています。

 春日や飛鳥のような枕詞は謎の多い言葉で、語源不明のものが沢山あります。

 枕詞の起源については、諺に由来するとか、和歌の序詞に由来するとか、土地
を褒めたたえる詞章に由来するとか、古代朝鮮語に由来するとか、様々な説があ
ります。

 僕は、枕詞は愛称やキャッチフレーズのようなものであり、その由来はひとつ
ではなく、これらの説のどれもが部分的に正しいのではないかと思っています。

 例えば”ファイティング”原田(我ながら古いねぇ〜(^^;))とか、”ゴッドハ
ンド”大山倍達とか、”ゴン”中山とか、”プリンセス”メグとか、”杜の都”
仙台とか、”日本のデンマーク”安城とか、”なでしこ”ジャパンといった、本
名の前に置く愛称またはキャッチフレーズのようなものだと思うのです。

 こういった愛称やキャッチフレーズの由来は様々であり、インパクトを与える
ためにあえて外来語や流行語を使うことがしばしばあります。

 それと同様に枕詞も当時の外来語つまり古代朝鮮語または古代中国語や、当時
の流行語を使用したものが多かったと思います。

 このため時代の流れの中で死語になり、その由来や意味が忘れ去られてしまっ
て語源不明になったものが多いのではないでしょうか。

 ちなみに奈良にかかる枕詞は「青丹よし(あをによし)」ですが、この枕詞の語
源についても、奈良が顔料の青丹(あおに)の産地だったという記録があるからと
か、奈良の都は青と朱色(丹)で彩られた建物が沢山あって美いからとか、諸説あ
ります。

 しかしどの説もいまいち説得力に欠け、現在のところは語源不明といった感じ
です。(^^;)

                            とものり

974. 奈良について蛇足です 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/08(月) 13:22:43
 966番の書き込みで説明した「奈良(なら)」の語源について、色々と面白い説
があります。

 例えば、朝鮮語で国を意味する「ナラ」が語源だという説があります。

 高句麗語、満州語、そして古代日本語で土地のことを「ナ」と言いました。例
えば、土地の持ち主のことを「名主(ナヌシ)」と言うのはその名残です。

 この「ナ」という言葉が国を意味する「ナラ」の語源であり、それが「奈良」
の語源だという説です。

 しかし「ナラ」という言葉は16世紀頃の朝鮮半島で普及した言葉のようで、古
代朝鮮語で国のことを「ナラ」と読んでいた証拠は現在のところ存在しません。

 また前漢が朝鮮半島に設置した「楽浪郡(nakrang、古代朝鮮漢字音でナラと発
音する)」、後の高句麗の「平壌(へいじょう)」を真似て、「奈良→平城京」に
したという説もあります。

 この説には、7世紀頃に作られたキトラ古墳(奈良県明日香村)の天井に描かれ
た星宿図が、紀元前1世紀頃の楽浪郡付近で観測した天体図に相当することが最
近の研究でわかり、当時の日本と楽浪郡との密接な関係が示唆されたという傍証
があります。

 ただし楽浪郡が高句麗によって併合されたのは313年であり、平壌と命名され
て首都になったのは427年です。

 この頃は、日本の古墳時代から飛鳥時代に相当します。したがって、もし楽浪
郡→平壌を真似たのなら、最初に本格的な都ができた飛鳥地方や橿原市付近を
「ナラ」と命名し、藤原京を「平城京」と命名した方が理にかなっています。

 平城京の前の都である藤原京(日本書紀では都の名称が「新益京(あらましのみ
やこ)」で、宮の名称が「藤原宮(ふじわらのみや)」とされている)は平城京や平
安京よりも規模が大きく、内容も遜色がない古代日本の最初にして最大の都でし
た。

 古代日本で最初にできた本格的な国や都ではなく、後になって遷都された土地
を「ナラ」と命名し、都を「平城京」と命名したというのは納得がいきません。

 我々は歴史を後ろ向きに眺めて、便宜上、飛鳥時代とか奈良時代という名称で
呼んでいます。しかし当時の人々は、当然、自分達の時代を”奈良時代”とは呼
んでいなかったはずです。(^^;)

 しかも奈良時代の都は、平城京→恭仁宮→紫香楽宮→難波京→平城京→長岡京
と何度も遷都を繰り返しています。このため当時の人々にとって平城京は多くの
都の一つにすぎず、特別なものではなかったと思います。

 こういったことを考えると、奈良を「国(ナラ)」と名づけたとか、「楽浪郡→
平壌」を真似たという説は説得力を欠きます。

 そもそも奈良地方は古くは「添(そほり)」と呼ばれていて、その後、奈良と呼
ばれるようになったのですが、その時期は都が遷都されるよりも前だったようで
す。

 日本書紀の崇神天皇紀に、「則ち精兵を率ゐて、進みて那羅山(ならやま)に登
りて軍いくさす。時に官軍屯聚して、草木をならす。因りて其の山を號して、那
羅山と曰ふ」という奈良の地名説話があります。

 日本書紀が編集されたのは奈良時代であり、これは天皇支配を正当化するため
の”勝者の歴史書”、つまり時の権力者に都合の良いように捏造された歴史書で
すから、内容をまるまる信用するわけにはいきません。

 特に勝者の歴史書による地名説話というのは、元から存在した地名に、勝者の
神話や歴史を後から無理にこじつけたものが多く、この崇神天皇紀もその類のも
のだと思います。

 ただ、このような地名説話を作ったということは、平城京ができる以前から奈
良地方が「ナラ」と呼ばれていた傍証だと思います。

 当時の”唐かぶれ”の権力者にとって、先進国である唐や高句麗のものを真似
るのは決して隠すべきことではなく、むしろ積極的に誇るべきことでした

 事実、藤原京も平城京も、唐の都・長安を真似たことを堂々と誇っています。

 したがって、もし古代朝鮮の国(ナラ)や前漢の楽浪郡→平壌を真似て「ナラ」
と命名したのだとしたら、わざわざ崇神天皇紀のような地名説話は作らず、その
ことを堂々と主張したと思います。

 何しろ現代の日本でも、欧米のものを真似ることは決して隠すべきことではな
く、”アメリカ流○○”とか”本場フランス仕込の○○”といった形容詞で誇ら
しげに喧伝していますもんね。(^_-)

                            とものり

973. 大和と服部 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/06(土) 00:22:39
 平城京遷都1300年祭の定番観光コースについて、ひととおり天邪鬼な感想を書
いたので、今度はこの観光コースに関係した雑学的豆知識をひけらかすことにし
ましょう。v(^_-)

 古墳時代から奈良時代にかけては、中国大陸や朝鮮半島の言葉に影響を受けて
日本語が大きく変貌した時代です。

 このためこの時代にできた日本語には、当時の東アジア全域の歴史的関係と言
語と文化に関する幅広い知識を総動員しなければ、正確に解釈することができな
い言葉が沢山あります。

 例えば964番の書き込みで触れた「大和(やまと)」は、そんな言葉のひとつで
す。

 この言葉は、古墳時代から奈良時代にかけて、日本と中国の関係から「倭(わ)
→大倭(やまと)→大和(やまと)」と変化しました。

 それから「服部」と書いて「はっとり」と読むのは、衣服を作る職能集団であ
る「機織部(はたおりべ)」に「服部」という漢字を当て字したものが、いつの間
にか「べ」が脱落して「はっとり」と読むようになったからです。

 「大和」も「服部」も、日本古来のヤマト言葉に外来語である漢字を当て字し
たものであり、漢字の訓読みと似た発想の言葉と言えるでしょう。

 後に西洋からアルファベット系の表音文字を使った外来語が入ってくると、今
度は外来語に漢字を当て字するようになります。

 例えば煙草(タバコ、ポルトガル語のtabaco)、硝子(ガラス、オランダ語の
glas)、缶(カン、オランダ語のkan/英語のcan)などがそれです。

 面白いものとしては、もはや死語になってしまった「半ドン」という言葉があ
ります。

 「半ドン」は「半分ドンタク」の略で、週休二日制が普及する前は土曜日のこ
とでした。

 「ドンタク」はオランダ語で日曜日または休日を意味する「zondag(ゾンター
ク)」がなまったもので、以前の土曜日は午後が休みだったため「半ドン」と呼
ばれていたのです。

 ちなみに、有名な「博多ドンタク」のドンタクも同じ語源です。(^_-)

                            とものり

972. @二人目の孫が誕生! 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/04(木) 00:32:44
 昨日(11月2日)、娘が第2子を出産し、逃げも隠れもできない”おじいちゃん
(^^;)”になってしまいました。

 今度も男の子で、体重は3630gとかなり堂々とした体格だったので、第2子にも
かかわらず少々難産気味だったようです。(~o~)

 最初の子供は産婦人科医院で産みましたが、今度は助産院で自然分娩したため、
婿殿が出産の手伝いをしました。

 そして僕とカミさんも知らせを受けて大急ぎで助産院に駆けつけ、ちょうど出
産してオギャアオギャアと産声を上げた瞬間に間に合いました。(^o^)v

 それにしても子供を産むのは哺乳類にとって当然の営みなのに、どうしてこん
なに苦労しなければならないのかと、つくづく理不尽に感じました。

 カミさんの出産に立ち会った時は、無我夢中だったせいか、それともカミさん
だったせいか(^^;)、それほど理不尽さは感じませんでしたが、娘の出産に立ち
会った今回は、人間の出産の理不尽さにつくづく腹が立ってしまいました。

 人間は立って歩くようになったために産道が狭くなった上に、脳が急激に発達
したために頭が大きくなり、普通の哺乳類のようにある程度成長してから出産す
ることができなくなり、未熟児の状態で出産するようになったそうです。

 このため人間の新生児は、他の哺乳類の新生児と違って自力では起き上がるこ
とができず、成長するまで時間がかかるのです。

 しかし未熟児の状態で出産するにしても限度があるため、どうしても頭が大き
くなりすぎ、出産時に他の哺乳類よりも格段に苦労するのでしょう。

 どうせ未熟児で出産するのなら、カンガルーのように超未熟児で出産し、育児
嚢で子供を育てるようになったらいいのに……と、娘の出産に立ち会った哀れな
父親は、わけのわからない妄想を思い浮かべながら、ただオロオロするしか能が
なかったのであります。(^^;)

                            とものり

971. Re[970]:春日大社の宮司さん 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/11/01(月) 18:20:11
>NEGIさん

>>春日大社の宮司は、現在でも藤原氏の子孫だったりします。

 おぉ、そうなんですか、それは知りませんでした!w('o')w

 でも神職の世界は昔から世襲制だったことを考えれば、それもある程度当然のこ
とのような気がしますね。

 そういえば、春日大社の権宮司である岡本彰夫氏が「昔は神と仏が渾然一体とな
った”神仏習合”だったが、現在は神と仏をどちらも独立した存在として認め、ど
ちらも等しく畏れ敬う”神仏和合”の精神が大切だ」と主張されていて、なるほど
いかにも日本的な懐の広い宗教観だなぁ…と納得しましたよ。

 現在の典型的な日本人は、子供の頃は七五三などで神社に参拝し、結婚式では白
無垢を着て神前の誓いをした後、ウェディングドレスに着替えて指輪の交換とウェ
ディングケーキの入刀を行い、正月は神社に参拝して、お盆はお寺に参拝し、秋に
なるとハロウィンの祭をして、クリスマスにはクリスマスケーキで祝いをし、死ん
だ時は仏式の葬式をするという、何でもありの宗教行事を何の違和感も感じること
なく行ってますよね。

 実際、このいい加減さ(^^;)というか懐の広さは大したもんで、このお陰で日本
では本格的な宗教戦争が起こらなかったんですもんね。

 外国人から見ると日本人は無宗教のように思えるそうですが、そうではなく、ど
んな神様でも受け入れてしまい、いつでもどこでも空気や水のように自然に神を感
じることができるほど懐の広い宗教心があるんですよね。(^_-)

                        とものり

970. Re[969]:春日大社 投稿者:通りNEGI 投稿日:2010/11/01(月) 17:17:04
>とものりさん

春日大社の宮司は、現在でも藤原氏の子孫だったりします。

    通りすがりNEGI

969. 春日大社 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/28(木) 14:01:51
 東大寺の次は、やはり定番観光コースである春日大社に行きました。(^o^)/

 春日大社は、平城京に遷都した時に、藤原氏の氏神である武甕槌命(タケミカ
ヅチノミコト)を、茨城県の鹿島神宮から春日の御蓋山(ミカサヤマ)に遷して春
日神と称したのが始まりだと伝えられています。

 唐から仏教が伝来すると、例によって何でも自分達なりに消化して取り入れて
しまうことが得意な我々の祖先は、従来の神道と仏教を融合して神仏習合し、独
特の”和唐折衷(^^;)”宗教を作り上げていきます。

 その結果、春日大社と藤原氏の氏寺である興福寺は一体になっていきます。現
在でも、春日大社に行くとそのことを実感します。

 ”唐かぶれ(^^;)”の権力者でさえこうでしたから、庶民はもっと和唐折衷の
民間宗教を作ってしまいます。

 その代表が、古神道の一種であり、恐らく縄文時代から続いているであろう山
岳信仰に、唐伝来の仏教、道教、陰陽道などが習合した、何でもありの宗教であ
る修験道(しゅげんどう)です。

 修験道の開祖は、伝説的な人物である役小角(役行者、えんのぎょうじゃ)とさ
れていますが、自然発生的な民間宗教ですから、もっと色々な人物がかかわって
最終的に修験道として確立したのだと思います。

 国家宗教を大衆に押し付けようとする権力者にとって、こういった自然発生的
な民間宗教は邪魔者ですから、当然、”ニセモノ”とか”まがいもの”と非難し
て迫害します。

 修験道も当初は天皇によって禁止され、江戸時代には幕府によって無理矢理仏
教の一派にされ、さらに明治政府によってまたしても禁止されてしまいました。

 神道の各流派を天皇家の流派に統合して国家神道にした明治政府は、神仏分離
令によって神道と仏教を分離し、廃仏毀釈によって仏教をいじめますが(^^;)、
修験道はどうしても神仏分離できなかったため、やむなく禁止してしまったので
す。

 宗教に限らず学問、演劇、絵画、音楽など様々な分野で大衆が自然発生的に作
り出した民間文化は、常に時の権力者よって禁止され、迫害されます。

 そういった民間文化は大衆が目覚めて自立することを促すものが多いため、自
らの支配にとって都合の良いものを大衆に押し付け、大衆を思いのままに操ろう
とする権力者にとって目障りになるからでしょう。

                            とものり

968. 東大寺 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/23(土) 22:15:26
 興福寺の次は、平城遷都1300年祭の定番観光コースであり、修学旅行の定番コ
ースでもある東大寺に行きました。(^o^)/

 若かりし頃、修学旅行で東大寺に行き、”奈良の大仏さん”を観たことがあり
ます。その頃はまだ純真でしたから(*^^*)、巨大な大仏殿と大仏さんを観て単純
に感心したものです。

 しかし年をとって世間をひねくれた目で見るようになったせいか(^^;)、今回
は奈良時代における箱物行政の極みとしか思えませんでした。

 何しろ、東大寺と盧舎那仏像を作らせた聖武天皇は、親達が作った平城京が気
に入らなかったのか、それとも自分も都を作りたかったのか、何度も遷都を繰り
返して国費と労働力を浪費した挙句、最終的にはまた平城京に戻り、今度は「国
銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ……それ天下の富を有
(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」と豪語して、日本中の銅と財
と労働力を無理矢理集めて庶民を苦しめたのですからひどいもんです。

 当時の日本の人口は約400〜500万人で、平城京には約20万人が住んでいました。
そしてその中の約1万人足らずが貴族や官僚であり、残りの19万人は農民だった
そうです。

 それでも平城京に住んでいた人達は当時の日本人の中では最高に恵まれた人達
であり、日本全体のほぼ99%は貧しい農民でした。その99%の人達は竪穴式住居
に住み、弥生時代とほとんど変わらない質素な生活をしていました。

 そして、この事情は平安時代になってもほとんど変わりませんでした。

 我々が歴史の教科書で刷り込まれ、平城宮跡や東大寺を観て想像する奈良時代
や平安時代の雅なイメージは、実は約1%の超富裕層の人達の生活を基にしたも
のであり、当時の大多数の日本人の生活とは程遠いものなのです。

 これは現代で言えば、プールやテニスコートがいくつもある超豪邸に住み、使
用人を何人も雇い、めったやたらとお金を浪費し、長者番付に載るような大金持
ちの人達の生活を、「平成時代の日本人の生活」としてイメージするようなもの
です。(こういう話題になると、どうしても貧乏人のひがみ根性がモロに出ちゃ
うなぁ…。(^^)ゞ)

 また平城宮や東大寺や大仏を実際に作らされたのは、そのために各地から強制
的にかりだされた農民達でしたが、その人達は自分が作った平城宮に立ち入るこ
とも、大仏を拝観することもできませんでした。

 その上、唐から賓客が平城京に来訪した時は、平城京に住んでいた農民達の姿
や住居を賓客に見られないように、巧みに案内したそうですから、まるっきり邪
魔者扱いです。(皮肉なことに、現在では唐の末裔である中国の権力者がこれと
同じ行為をしているそうです。(^^;))

 この時代に限らず、いつの世でも権力者達は「天下万民のため」という常套句
を用いますが、この「天下万民」は約1%の超富裕層の人達とその社会だけのこ
とであり、残りの99%の庶民のことは全く念頭に無いということがこの事実から
よくわかります。

 そういった天邪鬼的感想(^^;)はともかく、純真だった頃も今回も変わらずに
感心したものは、国宝&世界遺産である東大寺大仏殿の中、恐れ多くも大仏様の
眼前で、堂々と土産物を売りつける土産物屋さん達の商魂の逞しさと、まるで自
分の身内の話でもするような調子で大仏さんの説明をするガイドさん達の、いい
味を出している名調子でした。(^_-)

                            とものり

967. 興福寺 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/19(火) 12:42:49
 平城遷都1300年祭の定番観光コースとして、平城宮跡の次は興福寺に行きまし
た。(^o^)/

 ここの国宝館には、有名な三面六臂の阿修羅像を含む乾漆八部衆立像が安置さ
れています。

 これらの像は元は西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つで
あり、五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けん
だつば)、阿修羅(あしゅら)、 迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅
(ひばから)の8体が現存しています。

 八部衆は古代インドで信奉されていた異教の神で、それが仏教に帰依して護
法善神となったものです。おそらく古代インドのインダス文明やガンジス文明
に征服され、服従した周囲の部族の歴史を反映しているのでしょう。

 八部衆には色々な組み合わせがあり、「法華経」では天、龍、夜叉(やしゃ)、
乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、
摩?羅伽(まごらか)の八衆になっていますが、興福寺では上記のような組み合わ
せになっています。

 また元々が異教の神のため異形の姿で表現されることが多いのですが、興福寺
の像は比較的人間に近く、特に阿修羅像、五部浄像、沙羯羅像などは少年、それ
も美少年の姿をしています。

 これは、西金堂を建立し、これらの像を作らせた光明皇后(聖武天皇の后)の美
少年好きを反映しているのではないかと邪推しています。(^^;)

 阿修羅像の正面顔以外は、どれもふっくらとした瓜実顔に目が細い唐風の美少
年であり、当時はこちらの方が人気があったと思います。

 それに対して阿修羅像の正面顔は少し憂いを帯びた現代風の顔であり、しかも
少女マンガに出てくる美少年を思わせるような華奢な体つきをしているせいか、
現代日本の女性達に絶大な人気があります。

 僕が見た時も、阿修羅像の前に沢山のおば様達が群がっていました。(^^;)

                            とものり

966. Re[965]:奈良と大文字 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/15(金) 10:29:30
>えちごやさん

 やあ、久しぶりですね!(^o^)/

>>ところで南都である、奈良という字は「大」を「示す」「良い」となってますねぇ
>>北嶺の京都では「大」文字焼きをしますねぇ、果たして「大」とは何を指して
>>いるんでしょうねぇ?

 「ナラ」の語源は「なだらかな土地」または「平らな土地」で、それに「奈良」
という万葉仮名を当てたというのが通説になっていますね。

 「平城京」という言葉も「平らな土地の城」という意味なので、僕もこの説に賛
成ですよ。

 「奈」という漢字は、本来は野生のりんごである「からなし」のことで、古代に
はこれを祭りの供物として供えたそうです。

 それで本当は「木」と「示(祭礼のこと)」から「木+示」という漢字になったの
が、その異体字として「奈」になったという説が有力です。実際、「奈」の本字は
「大」の代わりに「木」を書きます。

 「大」という漢字は人が手足を広げて大の字になった姿を描いた象形文字で、こ
れは確かに納得できますね。(^_-)

 大文字焼きは各地にありますが、有名なのは京都の五山送り火の中の大文字焼き
でしょうね。

 五山送り火では、「大」の他にも「妙法」という文字と船形と鳥居形の送り火を
しますが、「大」が一番見栄えがするのでこれを各地で真似たのでしょう。

 ただし、五山送り火でこれらの文字と形状を使用している詳しい由来は不明だそ
うですよ。(^^;)

                        とものり

965. Re[964]:平城宮跡 投稿者:えちごや 投稿日:2010/10/14(木) 15:39:57
とものりさんこんにちは、
ご無沙汰のえちごやです(^^;

わたしも半年ほど前に同コースを夫婦で参拝して来ましたよ(^_^)
奈良公園で鹿のお産に立ち会ったぐらいしかトピックはありませんでしたけどねw

ところで南都である、奈良という字は「大」を「示す」「良い」となってますねぇ
北嶺の京都では「大」文字焼きをしますねぇ、果たして「大」とは何を指して
いるんでしょうねぇ?

ちなみにうちの子供は「しょうた」で翔大と書きます(関係ないって?w)



えちごや@わたしは某NETの影響でネットスラングと顔文字が刷り込まれています(^^;;;




>とものりさん

>> 先日、平城遷都1300年祭に合わせて奈良観光に行ってきました。(^o^)/
>>
>> 今回は1泊2日の旅なので、平城宮跡、興福寺、東大寺、そして春日神社と、極
>>めつけのベタな定番観光コースを回ってきました。(^^;)
>>
>> まずは、平城宮跡で印象に残ったことから一言。
>>
>> 再建された朱雀門と大極殿を見ると、奈良時代の権力者達がいかに”唐かぶれ
>>(^^;)”していたかわかります。
>>
>> 何しろ唐の都と政治形態を真似しただけでなく、天皇の名前を初めとして貴族
>>の名前、役所の名前、官位の名前を唐風の漢字名にし、国の公文書まで漢文にし
>>てしまったのです。
>>
>> 今で言えばこれらは、総理大臣の名前を「president Naoty Kan」にし、厚生
>>労働省を「FDA」にし、国の公文書を英語にしたようなものですから、”西洋か
>>ぶれ”の明治政府や、社内公用語を英語にした楽天よりも徹底しています。(^^;)
>>
>> このお陰で現在でも国の公文書は漢文調の文章であり、漢文調の文章を”格調
>>が高い”と感じるような刷り込みが民衆の心に残っています。
>>
>> そして現代では英語交じりの文章を”先進的”と感じ、英語ができる人をイン
>>テリと考え、欧米に留学した人が高い地位に付く風潮があるように、奈良時代は
>>漢文調の文章を”先進的”と感じ、中国語ができる人をインテリと考え、中国に
>>留学した人が高い位に付く風潮がありました。
>>
>> また中国の権力者が、「矮小な国」という意味で勝手に名づけた「倭(わ)」と
>>いう国名を佳字の「和」に変え、それに「大いなる」という意味の冠詞を付けて
>>「大和」とし、その漢字を古来からの呼び名である「やまと」と無理矢理読ませ
>>たところなどは、明治政府が自らの国を「大日本帝国」と呼んだことを連想させ
>>ます。
>>
>> いつの時代でも、日本の権力者の考えることは変わらないようです。(^^;)
>>
>>                            とものり
>>

964. 平城宮跡 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/14(木) 12:28:42
 先日、平城遷都1300年祭に合わせて奈良観光に行ってきました。(^o^)/

 今回は1泊2日の旅なので、平城宮跡、興福寺、東大寺、そして春日神社と、極
めつけのベタな定番観光コースを回ってきました。(^^;)

 まずは、平城宮跡で印象に残ったことから一言。

 再建された朱雀門と大極殿を見ると、奈良時代の権力者達がいかに”唐かぶれ
(^^;)”していたかわかります。

 何しろ唐の都と政治形態を真似しただけでなく、天皇の名前を初めとして貴族
の名前、役所の名前、官位の名前を唐風の漢字名にし、国の公文書まで漢文にし
てしまったのです。

 今で言えばこれらは、総理大臣の名前を「president Naoty Kan」にし、厚生
労働省を「FDA」にし、国の公文書を英語にしたようなものですから、”西洋か
ぶれ”の明治政府や、社内公用語を英語にした楽天よりも徹底しています。(^^;)

 このお陰で現在でも国の公文書は漢文調の文章であり、漢文調の文章を”格調
が高い”と感じるような刷り込みが民衆の心に残っています。

 そして現代では英語交じりの文章を”先進的”と感じ、英語ができる人をイン
テリと考え、欧米に留学した人が高い地位に付く風潮があるように、奈良時代は
漢文調の文章を”先進的”と感じ、中国語ができる人をインテリと考え、中国に
留学した人が高い位に付く風潮がありました。

 また中国の権力者が、「矮小な国」という意味で勝手に名づけた「倭(わ)」と
いう国名を佳字の「和」に変え、それに「大いなる」という意味の冠詞を付けて
「大和」とし、その漢字を古来からの呼び名である「やまと」と無理矢理読ませ
たところなどは、明治政府が自らの国を「大日本帝国」と呼んだことを連想させ
ます。

 いつの時代でも、日本の権力者の考えることは変わらないようです。(^^;)

                            とものり

963. Re[962]:Random high 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/06(水) 10:13:31
>山本直樹先生

>>うーん、やはり統計学は難しいです。

 実は統計学はけっこう簡単なんですが、それを臨床試験に応用した臨床薬理学が難
しいんですよ。(^^;)

 本来、統計学はデータ欠損も脱落もないという前提で理論を組み立てています。
そして原則として1つの試験では1つの評価指標だけを解析することを目的として設
計し、検定も推定も1回しか適用できません。もちろん、中間解析という概念はあ
りません。

 その証拠に、必要例数を計算する時は1つの評価指標を用いて計算しますよね。
そして理論的に正しい解析ができるのは、必要例数を計算した指標だけです。

 しかし実際の臨床試験にはデータ欠損と脱落がつきもので、これらがない臨床試
験はまずありません。

 さらにたいていの臨床試験は複数の評価指標(エンドポイント)を設定し、紹介し
ていただいたウェブサイトの例のように、時には中間解析を行ったりします。

 このため、臨床試験のデータを理論的に正しく解析する方法はないのです。

 そこで仕方がないので、理論的な破綻がなるべく少ないと思われる手法を用いて、
暫定的かつ近似的な解析を行っているのが現状です。

 これらは全て、普通の実験などに比べて臨床試験は実施するのが非常に大変だと
いうことに起因しています。

 例えば科学や物理学などの実験では、予備実験を本実験の10倍くらいは実施しま
す。条件を色々と変えた探索的な予備実験を何度も行い、最も良いと思われる条件
で検証的な本実験を1回(またはせいぜい数回)行うわけです。

 それに対して臨床試験では、少数例の予備試験を味見的に行い、いきなり多数例
の本試験を行います。そして本試験の中でも、探索的な部分と検証的な部分を同時
に行い、時には中間解析を行って試験を途中で終了したりします。

 これは、普通の実験などに比べて臨床試験を実施することが非常に大変であるこ
とが原因です。

 本来、これらは目的を1つに絞った複数の試験に分割すべきであり、中間解析を行
って事前の予想と異なった経過になったのなら、すぐに試験を中止し、試験計画を
練り直して再試験を行うべきです。

 このように臨床試験では試験計画が複雑で、しかも理論的に破綻しているため、
正しい解析法は存在しないのです。

 その結果、臨床試験のデータ解析が非常に複雑になり、研究者によって適用する
統計手法が異なったり、結果の解釈が異なったりします。

 全く困ったもんです。(~o~)

                        とものり

962. Random high 投稿者:山本直樹 [URL] 投稿日:2010/10/05(火) 18:11:01
ランダム化臨床試験は,本来内的妥当性の高い結果を提供できるはずですが,実に多くのバイアスや交絡因子が適切に処理されていない,あるいは確信犯的に除 去されないままです。したがって解釈に際しては,“ 騙されないように” 読む必要があります。
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02898_11

うーん、やはり統計学は難しいです。

961. Re[959]:百姓たちの江戸時代 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/04(月) 16:10:29
>山本直樹先生

>>百姓たちの江戸時代という本を読みました。

 非常に興味深い本ですね、僕も図書館で探してみたいと思います。

>>村の運営と、領主の関係と言うものもわかってきます。一揆と言っても野蛮で乱暴
>>なものではなく、団体交渉というか、そういうものに近いことがわかります。

 学生の時、学生運動に関連して江戸時代の百姓一揆について色々と調べた時に、
僕もそのことを知りました。

 西洋の封建時代では権力者に反対した人物は極刑になって惨殺されましたが、平
和な日本の江戸時代では遠島がせいぜいだったのですよね。

 そして教科書では「江戸時代、重い年貢にあえいでいた百姓が頻繁に一揆を起こ
したが、明治維新によって救われた」と教えられていたのに、実際には明治になっ
てからの方が税金が重くなり、百姓一揆の件数が増えていたということと、政府に
反対する人物に課せられる刑罰が重くなっていったことも知りました。

 江戸時代の百姓は決して無知蒙昧ではなく、読み書きソロバンのできる人が沢山
いて、和算家から和算まで習っていた人がいたのですから全く驚かされます。

 江戸時代の日本の大衆の知的水準の高さと逞しさには、本当に感心させられます
よね。

                        とものり

960. Re[958]:ヨイトマケの唄 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/04(月) 13:35:42
>山本直樹先生

>>言葉に身体性が宿ってるのです。丸山明宏は、堂々と「土方」を歌い上げました。

 中性的な美貌のシャンソン歌手であった丸山明宏が、自ら作詞作曲した「ヨイ
トマケの唄」を歌っているのを聴いて、正直言って当時の僕はかなり違和感を持
ちました。

 しかし違和感と同時に、シャンソンを歌っていた時には感じられなかった強い
説得力も感じて不思議に思ったものです。

 その後、彼の生い立ちを知ってその説得力の理由を理解しましたが、この年に
なって、さらにもう少し深読み(または勝手な妄想?(^^;))をするようになりま
した。

 それは、シャンソン歌手であった彼が自らの体験に基づいた重いテーマを表現
しようとした時に、シャンソンではなく演歌調の音楽を選んだのは、借り物の音
楽では自らの魂の叫びを表現できない、と本能的に感じたからではないかという
ことです。

 明治のいわゆる”文明開化”以後、明治政府は西洋列強に追いつこうと、従来
の日本文化を否定して西洋文化を積極的に取り入れようとします。

 それは鹿鳴館に代表されるように、表面だけ真似した借り物文化にすぎません
でしたが、それを大衆に無理矢理押し付けようとしたのです。

 しかし日本の大衆は、政府が上から視線で押し付けようとする”近代化”の企
みをかいくぐり、下から視線で西洋文化を巧みに日本化して独自の和洋折衷文化
を作り上げていきました。

 例えば音楽分野で言えば浅草オペラ、宝塚歌劇、演歌等がその代表例で、後の
和製ポップス、和製フォークソングなどもその直系の子孫です。

 当然のことながら政府と政府御用達の”進歩的な知識人”達は、それらの和洋
折衷文化を「ニセモノ」とか「マガイモノ」と弾劾して排除しようとし、「本物」
の西洋文化を押し付けようとしました。(この両者のせめぎ合いは、現在でも相
変わらず続いています。(^_-))

 そもそも風土も民族も歴史も異なる土地で長い時間をかけて育まれた文化を、
そのまま真似するのは滑稽であり不可能なことです。

 文化にはホンモノもニセモノもなく、その土地の風土と、そこで暮らす人々に
に合っているか否かという区別しかないはずです。

 そしてそのような異種の文化がお互いに刺激し合い、混ざり合ってこそ、それ
ぞれの風土と人々に適した豊かで多様な文化が生み出されていくはずです。

 そして日本民族は、外来の文物を巧みに換骨奪胎して日本化することを大昔か
ら得意技にしていたのです。(^o^)v

 演歌も和製ポップスも和製フォークも、西洋音楽との出会いの中で日本の大衆
が生み出してきた独自の文化であり、ニセモノでもマガイモノでもありません。

 丸山明宏が自らの魂の叫びを表現しようとした時、シャンソンではなく演歌調
の音楽を選んだのは、そのことを本能的に知っていたからではないかと思います。

                        とものり

P.S.

 文化は時代と共に変化していく生き物ですが、本物の生物でも同様のことが起
きています。

 折から、生物多様性に関する会議であるCOP10が名古屋で開催されます(実際に
は、この会議は生物資源を国と国とが勝手に奪い合う、ヤクザ同士の縄張り争い
の会議です(^^;))。

 COP10がらみで、日本固有の生物を外来生物が脅かしていることに対する警告
が政府や”知識人”から発せられることがあります。しかしこの警告は、明らか
に生物多様性の保護と矛盾しています。

 文化と同様に異なる風土の異なる生物同士が出会うことにより、豊かで多様な
生物が生み出されていきます。

 そもそも日本列島は大陸から離れて新たに形成された土地のため、日本固有の
生物というのは存在せず、外から日本列島に来て独自の進化を遂げた生物ばかり
です。

 そのため日本固有の生物と外来生物という区別はなく、日本列島に来た時期が
早いか遅いかという区別しかありません。

 もし外来生物を排除してしまえば、日本列島における生物多様性は確実に失わ
れていくでしょう。(^^;)

959. 百姓たちの江戸時代 投稿者:山本直樹 [URL] 投稿日:2010/10/03(日) 15:11:16
百姓たちの江戸時代という本を読みました。
村の運営と、領主の関係と言うものもわかってきます。一揆と言っても野蛮で乱暴なものではなく、団体交渉というか、そういうものに近いことがわかります。首謀者は遠島になったりしますが!…なんにしろ江戸時代の百姓に抱いていた勝手なイメージを払拭するのに最適の本書です。
読者の一人の感想です。
個人的に一番印象に残ったのは、視覚障害の娘に音曲を習わせるため、
町人や藩と粘り強く交渉を続けた農夫のエピソード。
子を思う親の愛情だけではなく
理不尽な慣習を変えるため、立ち上がったその勇気に
熱く胸を打つものがありました。
平易な文章で、農民のたくましい姿を克明に記した本書。
自分たちの先祖の力強さを実感するためにも、
歴史に興味がある方に限らず、多くの方に読んでいただきたい著作です。
著者はあとがきで
江戸時代の百姓たちは、日々の労働にいそしみ、住みよい社会を作るために戦いました。
自然の猛威にも屈しませんでした。同時に、意欲的に学び、しっかり遊び、豊かな文化活動を営んでいました。苦労や挫折もありましたが、勤勉、節約、孝行などをモットーに粘り強い努力を続けました。
と記しています。

958. ヨイトマケの唄 投稿者:山本直樹 [URL] 投稿日:2010/10/03(日) 07:59:52
何度か僕も グレかけたけど ヤクザな道は 踏まずにすんだ
どんな綺麗な 歌よりも どんな綺麗な 声よりも
僕を励まし 慰めた
かあちゃんの唄こそ 世界一 かあちゃんの唄こそ 世界一 

「何度か僕も/グレかけたけど/ヤクザな道は/踏まずにすんだ」。
ここに、人間美輪明宏、発表当時は丸山明宏の、真骨頂があると思います。
主人公の「僕」が、ヤクザにならなかったことを幸運だと言ってるんですね。好き好んでヤクザに堕ちる人間はいません。切ない物語があるんだよっていう、人間とその運命に対する、深い愛があるようです。思うに、同性愛者として、世間の白眼視と闘いつづけた人間ゆえの人間観でしょう。「ヨイトマケの唄」が放送禁止にされたのは、「土方」が職業差別語との理由からですが、「土方」という言葉を抹殺すれば、「土方」という存在は見えなくなります。そこにいるのは、「土木作業員」です。しかし、「土方」と「土木作業員」は全く別物です。後者は職業を表わす記号に過ぎないのですが、前者には血も涙も通っているのです。言葉に身体性が宿ってるのです。丸山明宏は、堂々と「土方」を歌い上げました。
世間一般から、貧しく汚く蔑まれてる「土方」を、渾身の歌唱で讃えてみせたのです。
美しいもの尊いもの、忘れてはならないものとして、聴衆の眼前に突きつけたのです。

以下はある方の投稿です。http://smcb.jp/ques/2952
私はこの歌の主人公と同じ経験をしました。
私が小学校の3年生だと記憶して居ります。
友達と下校時に帰宅途中で、他愛の無いおしゃべりをしながら、村の橋を通りかかった時、下の川原で河川工事をしてる人達を発見しました。友達が「土方が川を掘ってるぞ」との声に、下を覗きました。一番近くで(つるはし、スコップで)作業をしてる叔母さんを見たとき・・・・・(母親で有る事を確信しました)私は無言のまま、友達を振り払うように、走って家に戻り、押入れに入って泣きました。
(友達に知られたら、きっと馬鹿にされる・・・・そんな思いでした)
普段は小遣いが欲しいだの、あれを買ってだの、これが食べたいだの、母親には口答えばっかりの私でした。また、殆ど学校の参観日には来ない母が、一度だけ来た事が有りました。・・・・が、土方の仕事を抜け出して来た母だったので、普段着と言うよりは作業着だったのです。その夜には、来てくれた事を、迷惑だ・・・と、母を罵倒していました。
(当時は出稼ぎの父が、遠隔地で仕事の事故で亡く成ったばかりでした)
母は歯を食いしばって、男衆と同じに力仕事をして、家計を支えて居た事を、目の当たりに見てしまったのです。その晩は、何時もと変わらず、庭は掃除したか?  豚(家畜)に餌はやったか?  の母の声に・・・一言も反論出来ませんでした。ヨイトマケの歌がラジオから聞こえて居た時代です。母は10年程前に他界しましたが、あの時の、母に対しての申し訳ない気持ちを居えないまま・・・・見送ってしまいました。

957. Re[956]:ヨイトケの唄 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/10/02(土) 20:42:00
>通りすがり(^^;;さん

>>大阪ではCOCOLOFMというシニア専門のFM局があるんですが、先日桑田圭祐カバー
>>の「ヨイマケの唄」ONAIRしてました(^^;;

 僕も桑田圭佑がTVで「ヨイトマケの唄」を歌っているのを聴いたことがあります
よ。おそらくソースは同じなんでしょうね。

 彼は「黒の舟歌」もカバーしていて、こういった曲に適した音楽センスをしてい
ますね。ただ残念ながら、70年代のあの暗くて重い雰囲気だけはなかなか出せない
ようですね。(^^;)

 「ヨイトマケの唄」は岡林信康の「山谷ブルース」や「チューリップのアップリ
ケ」と並んで、60年代を代表する名曲ですよね。

 同じように暗くて重い時代ですが、70年代が学生運動などの社会的なメッセージ
色が強かったのに対して、60年代は社会の底辺層からのより素朴なメッセージ色が
強かったように思います。

 僕がフォークソングにはまり始めた60年代の初めは(生意気にも、友達とフォー
クグループを組んでいました)、社会的なメッセージ色よりもコミックソング色が
強かったですね。

 そのせいで、僕の最初のオリジナル曲もコミックソングでしたよ。(^^;)

                        とものり

956. Re[951]:黒の舟歌 投稿者:通りすがり(^^;; 投稿日:2010/10/02(土) 00:55:29
毎度です。。

>とものりさん

>> 先日、BS-TVで若い男性ボーカルが「黒の舟歌」を歌っていました。

わかる人にはわかる。。。唄ですね(笑

大阪ではCOCOLOFMというシニア専門のFM局があるんですが、先日桑田圭祐カバーの「ヨイマケの唄」ONAIRしてました(^^;;


>>
>> ご存知の方はご存知のように(^^;)、この曲は1970年代に野坂昭如が歌った名
>>曲で、加藤登妃子や長谷川きよし等もカバーしています。
>>
>> 暗くて重い70年代を色濃く反映したこの曲は、やっぱり若い歌手が歌っては味
>>がでないなぁ…などと思いながら、あの時代を懐かしく思い出していたら、ふと、
>>この曲は、あの時代に流行った同棲生活を歌ったものであることがわかりました。
>>
>> 70年代は林静一の名作マンガ「赤色エレジー」を嚆矢として、この作品をフォ
>>ークソングにしたあがた森魚の「赤色エレジー」、さらにこの作品を一般読者向
>>きに翻訳した上村一夫のヒットマンガ「同棲時代」、かぐや姫の名曲「神田川」
>>等、同棲生活をテーマにした作品が流行りました。
>>
>> 当時は「黒の舟歌」が時代を色濃く反映した曲であることはわかりましたが、
>>何しろ若かったので(^^;)、直喩や暗喩が盛りだくさんのディープな歌詞の表向
>>きの意味しか理解できませんでした。
>>
>> 少々長くなりますが、この曲を知らない人のために歌詞を書いておきます。
>>
>>・「黒の舟唄」 能吉利人(桜井順のペンネーム)作詞・桜井順作曲
>>
>>     男と女の間には    深くて暗い川がある
>>     誰も渡れぬ川なれど  エンヤコラ今夜も舟を出す
>>     Row and Row  Row and Row  振り返るな Row Row
>>
>>     お前が十七俺十九    忘れもしないこの川に
>>     二人の星のひとかけら  流して泣いた夜もある
>>     Row and Row  Row and Row  振り返るな Row Row
>>
>>     あれから幾年漕ぎ続け  大波小波ゆれゆられ
>>     極楽見えたこともある  地獄が見えたこともある
>>     Row and Row  Row and Row  振り返るな Row Row
>>
>>     たとえば男はあほう鳥   たとえば女は忘れ貝
>>     真っ赤な潮が満ちるとき  なくしたものを思い出す
>>     Row and Row  Row and Row  振り返るな Row Row
>>
>>     おまえと俺との間には    深くて暗い川がある
>>     それでもやっぱり逢いたくて エンヤコラ今夜も舟を出す
>>     Row and Row  Row and Row  振り返るな Row Row
>>
>> 表向きこの歌詞は、若い男と女が出会い、現実の生活に直面して二人で思い描
>>いた夢をひとつひとつ捨てながら、人生の荒波にもまれて年を取り、若き日の夢
>>を思い出して涙し、それでもやっぱりお互いに惹かれあいながら生きていくとい
>>ったストーリーを、男と女を対比しつつ唄っていて、ちょうど河島英五の「酒と
>>泪と男と女」のような内容に思えます。
>>
>> ただ「船を漕ぐ」という表現がセックスの暗喩であることはすぐわかりますか
>>ら、この歌詞に濃密なエロっぽさが漂っていることは当時も理解できました。
>>
>> しかしこの年になって久しぶりにこの曲を聴いた時、「二人の星のひとかけら」
>>が17歳の女性が身ごもった子供の暗喩であることと、「真っ赤な潮(うしお)」が
>>女性の月経の暗喩であることに思い当たり、急に、実はこの歌詞は当時流行った
>>同棲生活を唄ったものであることがわかったのです。
>>
>> 男と女の間にある「深くて暗い川」とは、男と女の考え方の違いを表している
>>のと同時に、子供を産むという男女の根源的な違いも表しているのでしょう。
>>
>>                            とものり
>>

955. Re[954]:尖閣諸島問題 投稿者:とものり [URL] 投稿日:2010/09/29(水) 11:11:21
>山本直樹先生

>>もう少し冷静な議論が出来る人はいないのか、と思っていたところ、以下のような
>>良い記事を見つけました。

 良い記事を紹介していただき、ありがとうございました。m(..)m

 この記事の筆者の年齢はわかりませんが、太平洋戦争当時のことを連想していると
ころをみると、あの時代を知っているような年の方なのでしょうね。

 「国辱」とか「国益」という言葉が、実は権力者と、権力者におもねることによ
って地位と財産を確保している人達にとっての面子と利益を意味するものであり、
一般の国民、特に庶民には無関係のものであることは、第二次世界大戦を始めとし
て過去の戦争が明白に証明しています。

 ほとんどの戦争は、今回の事件のように、ある国の権力者が”仮想敵国”の庶民
をいじめ、それに対抗して相手の国の権力者がある国の庶民をいじめ返し、それを
権力者が「国辱」とか「国益」という言葉にすりかえてお互いに非難し合い、それ
によって利益を得たり損をしたりする商売人が裏で権力者をそそのかし、”知識人”
と呼ばれる人達が賛同し、マスメディアが煽り立て、一般国民が付和雷同して起こ
りますよね。

 いつの時代でもどこの国でも、我々庶民が戦うべき相手は、権力者が非難する仮
想敵国ではなく、自分自身の心の中にある偏見や利己心であり、高揚させるべき精
神は、マスコミが煽り立てる偏狭なナショナリズムではなく、噂やデマに付和雷同
しない沈着冷静さであり、権力におもねることのない勇気のばずです。

 権力者が面子を潰されたと思ったり、商売人が損をすると思ったのなら、当事者
である双方の権力者同士、商売人同士が尖閣諸島に集まり、話し合いをしたり、殴
り合いをしたり、殺し合いをしたりして解決すれば良いのであって、無関係な庶民
を巻き込まないで欲しいものです。

 ヤクザ同士の争いにシロウトを巻き込むのは、ヤクザの仁義に反するというもの
ですよね。(^^;)

                        とものり

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