玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナーお宮さん騒動顛末記

【第3章 歴史】

……夜陰に市腋といふ處に泊る。 前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。 市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば尾張の國に移りぬ。 ……

と鎌倉時代の古文書に記されたように、江戸時代以前の海部郡は津島(現在の津島市)、市腋島(後の市江村、現在の愛西市南部と弥富市北部)といった島々が点在する海でした。

ところが天正13年(1586年)、現在の岐阜県北西部を震源とするマグニチュード8クラスの大地震(天正大地震)が発生し、その影響で市腋島の東南海上の所々に砂丘ができます。 やがてその砂丘を海岸民が開墾して新田を作り、輪中の島を形成します。 そしてそれらの島々は主なものが14個ほどあったところから、十四山(後の十四山村、現在の弥富市)と呼ばれるようになります。

そのような新田開発が盛んだった慶長(1596〜1615年)の頃、清洲からやってきたH.S太夫(仮名)という浪人が市腋島に住みつきます。彼は大の仏信者で、村人にも慕われ、市腋島に寺を建立したりしました。 彼の子のK兵衛(仮名)は、村人達が十四山の中のひとつの島を開墾して新田を作りつつあるという話を聞き、寛永7年(1630年)に尾張藩の許可を得て、村人の有志と共にその島で本格的な新田開発を行います。 さらにK兵衛の子のC右衛門は、村人の有志と共にその島に移住して新田大将(庄屋)となり、村人の惣代(総代)と協力して新しい部落を作ります。

それが僕の住んでいた地区「S新田(仮名)」の始まりです。 そしてC右衛門の子孫が、お宮さん騒動の時の氏子総代さんであり、村人の惣代の子孫が地区のもうひとりの長老であるTさん(仮名)です。

Tさんの家は代々町会議員や区長を務めていて、地家の3分の1ほどがTさんの一族であり、全て苗字が同じです。 これは田舎ではよくあることで、ひとつの地区の住人が全て同じ苗字ということも珍しくありません。 僕の地区の周囲にはこのようにして開拓された地区が多く、その名残が「○○新田」という地区名として残されています。

当時、新田開発の際に、伊勢神宮の御札(神符)を祀って神明社(神明神社)を創建することが盛んに行われていました。 僕の地区の神社も神明社であり、新田開発の時に創建されたものと考えられます。

面白いことに新田開発を行ったC右衛門と村人達は市腋島の出身であり、津島神社の氏子だったようです。 そのため正月などの改まった時には津島神社に参拝に行ったらしく、現在でも正月に地家の人達が揃って津島神社に参拝に行く慣わしがあります。 区長の時、僕もそれに同行して長老から色々と昔話を聞きました。長老の話では、祖先が市江村の出身だから、昔から正月にはこうして祖先の氏神様にお参りする慣わしがあるとのことでした。

津島神社は建速須佐之男命(スサノオノミコト)を祭神とする出雲系の神社であり、神明社は天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭神とする高天原系の神社です。 これら2系列の神社は注連縄の向きや参拝時の作法など、細かいところで少し相違があります。 そのせいか地区の神事やお祭りの時、指導役の長老が代わると言うことが異なり、神事やお祭りの手伝いをする人達が戸惑ってしまうことがけっこうありました。(^^;)

ちなみに津島神社には「建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡った時、荒魂(あらたま、神の荒々しい魂)は出雲国に鎮まったものの、和魂(にぎたま、神の優しい魂)は対馬(旧称は津島)に鎮まり、その後、尾張国の津島に鎮まった」というエピソードが伝えられています。 建速須佐之男命の象徴である草薙の剣が熱田神宮に祀ってあり、対馬の旧称である「津島」という土地に、建速須佐之男命を祭神とする津島神社が存在することは決して偶然ではなく、古代における尾張地方と出雲地方の結びつきの強さ表しているのではないかと思います。

……といった個人的な趣味の話はさておき(^^;)、僕が調べた限りでは、残念ながら新田開発当時の地区の古地図はなく、江戸時代後期の古地図しかありませんでした。 その古地図には20軒ほどの農家と神社、そして田畑と用水と溜池が記されていて、神社は現在と同じ場所にありました。 その場所は当時も現在も地区のほぼ中央ですから、創建同時から神社は同じ場所にあったのでしょう。

氏子総代さんと長老Tさんにその古地図を見せたところ、地区の様子は伊勢湾台風の前まではその古地図とほとんど変わっておらず、古地図に記された家が今の誰の家に相当するのかだいたいわかるとのことでした。w('o')w

さて、僕の執念と邪念(^^;)の調査の結果、神社は次のように変遷してきたことがわかりました。

○江戸時代〜明治初期…神社は村の共有物

神社の土地の所有権に関する最も古い記録は、僕が調べた限りでは、法務局の閉鎖登記簿(効力を失った登記簿)から見つけ出した江戸末期の登記簿です。 その登記簿には、神社とその周囲にある宮田(神社に付随する田で、祭事などで使用する米を栽培するためのもの)の手書きの見取り図が記載されていました。

その見取り図によると当時の神社の境内は現在の半分くらいの大きさで、その代わり現在の倍ほどの長さの参道が付いていました。 そしてそれらの土地は村の惣代であるK.K左衛門(仮名)名義になっていて、見取り図の横に本人の自筆の署名と花押が記されていました。 そのK左衛門は新田開発時の惣代の子孫であり、長老Tさんの4代ほど前の祖先に相当します。

この当時の法律では村が土地や物を所有することはできず、村の共有地や共有物は村の代表者である惣代名義にしていました。 したがって神社の土地と宮田は村の共有地であり、神社そのものも村の共有物でした。

○明治中期…神社の村共有地を村名義または個人名義に名義変更

明治中期になり、村が「村持」という村名義の土地を所有できるようになったため、神社の惣代名義の村共有地が村持に名義変更されます。 この時、宮田の一部(参道の両側にあった宮田)は個人名義に変更されました。 その個人はK左衛門の子供でした。 おそらく宮田は元々はK左衛門の祖先が自らの田を提供したものであり、この時、K左衛門はその一部を自分の子供に相続させたのだと思います。

○明治後期…神社が村社・神明社になり、土地を神社名義に変更

明治元年(1868年)の神仏分離令によって、それまで合祀されていた神道と仏教が分離されます。 そしてさらに明治政府は色々な流派の神道を国家神道に統合し、国家で管理することにします。 これは明治政府の政教一致政策に基づくもので、天皇を中心とした皇国史観を民衆に広めるための政策でもありました。

しかし当時の全国各地の神社は膨大な数(約20万社)であり、その起源も祭神も様々だったため、管理しやすいように神社を統廃合して数を減らそうとします。 ところが何しろ数が多かったため、そのための調査に非常に時間がかかってしまい、明治39年(1906年)の神社合祀令によって、ようやく神社の整理が本格的に始まります。

この神社整理事業によって、全国の神社は原則として一町村一社に統廃合されます。 その結果、この地区の神社は村社・神明社になり、境内と参道が村持から村社名義に変更されました。 ただし宮田は名義変更されず、村持の共有地のまま残されました。 国家が管理する神社はあくまでも境内と参道だけであり、宮田は地元に管理させたのでしょう。

しかし当時の村人達は、わけのわからない法律上の名義は無視して、神社の境内と参道に宮田を合わせたものを慣習的に”おらが村の神社(^^;)”の範囲と捉えていたと思います。

○昭和20年代…農地改革と神社の宗教法人化

明治後期から昭和初期の第二次世界大戦前まで、神社の状態は変わりませんでした。 神社の状態が変わるのは江戸時代初期、明治初期、そして第二次世界大戦における日本の敗戦後であり、時代の大きな変革期に相当する時期です。 これは昔から政治と宗教が密接に結びついていることと、神社が民衆の生活に深く根付いていることを反映しています。

さて、昭和22年(1947年)の農地改革に関連して、村持の共有地が町有地に名義変更されます。その結果、宮田は町有地になりました。 また昭和27年(1952年)に制定された宗教法人法により、村社・神明社は宗教法人・神明社になり、神社の境内と参道は神社名義になります。 この時、境内に隣接する宮田が半分ほど埋め立てられ、境内が2倍くらいの広さに拡張されました。これは、宗教法人としての体裁を整えることが目的だったと思います。

ただしこの時、土地の名義は全く変更されませんでした。 当時の人達はお互いの口約束だけで事足りていて、面倒な書類上の名義変更などはあまり気にかけていなかったのでしょう(←これは、現在でもしばしばあることです (^^;))。 そのため境内の半分くらいの土地は町有地であり、登記上の地目(不動産登記法上の土地の用途による分類)は「田」のままでした。

先代の宮司さんが神社庁に届けた神社の見取り図(境内と参道)は、時期的にも形状的にもこの時期の神社と一致します。 しかし当時の人達は、宗教法人化前と同様に、神社の境内と参道に宮田を合わせたものを”おらが村の神社 (^^;)”の範囲と捉えていたと思います。

○昭和30年代…公民館建設と参道周囲の整備

昭和30年代になって、地区の公民館(本当は自治会館)を建設することになります。 それまで地区には公民館がなく、地区の寄り合いは区長の家などで行われていました。

実は、僕が区長になって自治会の規約を制定するまでは——驚いたことに、それまでは規約が全くなく、口伝えの慣習に従って自治会を運営していたのです!w(+o+)w——区長を中心とした地区の活動が自治会活動であり、町政協力員である区長が自治会長を兼任しているということが、一部の意識の高い人達を除いて明確には意識されていませんでした。 そのため地区の人達の”寄り合い(^^;)”が自治会の集会であり、毎月集めている”区費”が自治会の会費であることも明確には意識されていませんでした。

何しろ以前は区長が住民税などの税金も集金していたため、”区費”を税金の一種と考えている人もけっこういたのです。

もちろん、昭和30年代の人達にも”自治会”という意識はほとんどありませんでしたが、とにかく神社の参道の両側の個人名義の田(元宮田)が埋め立てられ、一方に公民館が建設され、参道を挟んだ反対側が広場になりました。 そしてその個人名義の田の代替えとして、参道が半分ほど潰されて田になり、それが個人の田として使用されました。 その結果、参道は半分ほどの長さになり、参道の両側に公民館と広場ができました。

この時も当事者間の口約束だけで、土地の名義は全く変更されませんでした。 ただし、公民館を建てた土地の地目だけは「田」から「宅地」に変更されました。 そうしないと公民館を建てることができなかったからです。 そのため公民館と広場は私有地の上にあり、参道を潰して作った個人の田は神社の所有地でした。 しかし当時の人達は、神社の中に公民館と広場ができ、参道が短くなったと解釈していたと思います。

昔の「お宮さん」は宗教的な施設であると同時に地域の公民館的な施設であり、氏子会は自治会的な組織でしたから、普通の宗教法人とは性格がかなり違います。 そのため第二次世界大戦後、民主化の一環として各地に公民館が建設された時、この地方の人達はほぼ例外なくそれを神社の境内に建てました。 そして、それがお宮さん騒動の遠因になっていたのです。

こうして、参道の形が神社庁に届けてあった見取り図と少し違ってしまいます。

○昭和40年代前半…S団地と公園の建設

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風によって、海部郡一帯は大きな被害を受けました。 そしてこの地区も大きな被害を受け、田畑がことごとく水没してしまいました。

当時、地区には町会議員がいて、地区のリーダー役をしていました。 その人物は長老Tさんの亡父であり、非常に進歩的な人でした。 その人は、この地区の地域的な特徴と当時の社会状況を考え合わせ、伊勢湾台風の被害を契機として、この地区を農業地帯から名古屋近郊の住宅地にしようと提案し、地区の人達の説得に成功します。

そしてその手始めとして、神社の周囲の土地を売却して100軒ほどの戸数のS団地を建設し、さらに残っていた神社の宮田を埋め立てて団地付きの公園を作ります。 公園を作ったのは、S団地のような大規模な団地には必ず付随する公園を作る必要があるからです。

この時、宮田は町有地でしたから、町役場に依頼して宮田の地目を「公園」に変更してもらい、建前上は町が公園を作ったことにして、実際の費用は全て地区が負担しました。 それによって公園は町有公園になり、町の管理になりましたが、掃除や草むしりなどの日常管理は地区に委託されました。

しかしその手続きを行った町会議員を中心とする首脳部以外の人達は、宮田が公園になったため、神社の中に公園ができたと解釈していたと思います。 その証拠に、公園ができてしばらくすると、町の許可を得ることなく、地区の人達が地区の費用で公園に遊具を設置しました。 これは子供達のために地区の人達が好意で行ったことでしたが、このことが後の公園問題をややこしくする遠因になります。

○昭和40年代後半…新公民館の建設と公園の移転

S団地の建設以後、地区の田を埋め立てて新興住宅が次々に建設されます。 その結果、従来の公民館が手狭になったため、新しい公民館を建設することになります。 何しろ、それまでは地家の家が20軒ほどしかなかった地区に100軒もある団地ができ、それ以後も次々と新興住宅ができたため、地区の戸数が急激に増加していたのです (ちなみに僕が区長をしていた時は戸数が800軒ほどあり、町で最も戸数の多い地区になっていました)。

また地区の共有地(地区の代表者名義)であった農業用の溜池を埋め立てて新興住宅用に売却したため、公民館を建設する財源ができていました。 そこで従来の公民館を取り壊し、その跡地と、参道を挟んだ反対側の広場にS団地の公園の遊具を移転してそこを公園にし、公園の跡地に新公民館を建設しました。

この時も、例によって土地の名義は変更しませんでした。 そのため新公民館は名目上は町有公園の中にあり、移転した公園は私有地の上にありました。 しかし当時の人達は、古い公民館も公園も神社の中にあり、公園を古い公民館の跡地に移転し、公園の跡地に新しい公民館を作った、つまり公民館と公園の場所を入れ替えただけで、新しい公民館も移転後の公園も神社の中にあると解釈していたと思います。

○昭和50年代…神社の改築と土地の整理

昭和50年代になると、地家の人達と新興住宅の人達が一緒に自治会やお祭りなどを行うようになり、政教分離が意識されるようになります。 そこで、それまでは一緒にしていた自治会の会計と神社の会計を分離し、不完全ながら名目上の政教分離を行います。 そして神社の神殿と拝殿を改築し、宮田を埋め立てて境内にした土地に地区の文化財である神楽太鼓と梵天(幟旗)を保管するための神楽倉庫を建設し、さらに参道以外の神社の境内を玉垣で囲います。

それと同時に、昭和30年代に行った公民館建設と参道周囲の整備の時に、個人名義の土地(元宮田)と参道の半分の土地を交換したにもかかわらず、土地の名義を変更しなかった手落ちを修正し、参道の両側の土地を神社名義に変更し、参道を潰して田にした土地を個人名義に変更しました。 それによって、参道の両側に移転されたS団地の公園の土地が神社名義になりました。

この時、元参道だった土地の中で、個人の田と参道の間の畦道も個人名義にしました。 ところがこのすぐ後、その個人の田を埋め立てて住宅を建てたため、参道の入り口がそのまま個人の住宅に続くことになってしまいました。 そこで残っていた畦道と参道を直角につなげて参道の一部にし、参道の入り口を住宅の横に変更しました。 しかしその土地の名義を変更しなかったため、参道の入り口付近が個人名義の土地になってしまいました。 こうして、参道の形が神社庁に届けてあった見取り図とまた少し違ってしまいます。

また神楽倉庫を建てた土地は町有地であり、新しい公民館を建てた土地と共に地目は「公園」として登記してあり、町役場にもS団地付きの町有公園として登録されていました。 そして、この土地の名義変更は行われませんでした。 町有地といっても元は宮田だったので、この一連の処理をした人達はそれで問題ないと考えたのでしょう。

その結果、玉垣で囲まれた神社の境内に、名目上は町有公園である町有地が残され、参道の両側の公園が神社の土地になり、参道の入り口付近に個人名義の土地ができてしまいました。 しかし当時の人達は、玉垣で囲まれた境内と参道が神社の土地であり、新しい公民館は玉垣の外になって神社とは切り離され、参道の両側の公園は町有公園を移転した公園だから、これで無事に政教分離が完成して一件落着!……と解釈していたと思います。

○平成10年前後…宗教法人法の一部改正に伴うお宮さん騒動勃発

こうして平成7年(1995年)の宗教法人法の一部改正に伴い、神社の土地の中に町有地と私有地があり、しかも神社の形が神社庁に届けてあった見取り図と食い違っていることが発覚し、お宮さん騒動が勃発します。

氏子総代さんと長老Tさんは昭和50年代にはまだ長老ではなかったので、当時の神社の改築と土地の整理には直接関与していませんでした。 しかし二人とも当時の長老から「神社を改築して色々な問題が無事に一件落着した」と聞かされていたので、神社の土地の登記簿謄本を見て大いに慌てふためいてしまったのです。(~o~)