玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー行雲流水

【第2章 結婚】

実は、除隊して日本に帰国していた時、オヤジさんは両親の薦めで一度だけ見合いをしたことがありました。 と言っても、中国大陸に渡りたいと考えていたオヤジさんはまだ結婚する気など全くなく、両親の顔を立てるためだけにしぶしぶ見合いをしたのです。 このため相手の顔もろくすっぽ見ず、早々に見合いを切り上げてしまったので、相手の顔や名前はおろか、見合いしたことすらすっかり忘れ切っていました。 オヤジさんの両親は息子のためにその結婚話に積極的だったらしいのですが、相手方はオヤジさんの現状を知ってさすがに躊躇し、話は保留状態でした。

ところがそれから3年ほどして、オヤジさんから「そのうちに長春に転勤になるかもしれない」という近状報告が届いたので、オヤジさんの両親はこれ幸いと結婚話を蒸し返し、強引に相手方を説得したのです。 そして「長春勤務になるなら」という条件で相手方の両親の承諾が得られ、色々ないきさつから、花嫁が単身で満州に渡ってオヤジさんのもとに嫁ぐということになりました。 こうしてオヤジさんの知らない間に結婚の段取りが出来上がり、「花嫁を迎えに来るように」という手紙がオヤジさんのもとに届いたというわけです。

この時代は、このように本人達の意向を無視して両親が勝手に結婚を決めてしまうことは決して珍しくなく、結婚式までお互いに会ったこともなかったという夫婦もたまにいたそうです。 しかしうら若い女性が、一度会ったきりで顔もほとんどわからない相手と結婚するために、遠い満州まで単身で行くというのはさすがに珍しかったかもしれません。 当時、「大陸の花嫁」といって満州の開拓義勇団に嫁ぐ花嫁を募集していましたが、オヤジさんの花嫁も、ある意味で大陸の花嫁のひとりだったと言えるかもしれません。 その勇敢と言うか無謀と言うか、とにかくやたらとバイタリティのある女性が僕のお袋さんでした。

僕のお袋さんはオヤジさんよりも4歳若く、1920年(大正9年)に蒲郡で生まれました。 家業は貧しいちくわ屋で、女ばかり5人姉妹の次女として生まれたため、幼い頃から店の手伝いをしたり、妹たちのお守りをしたりと、遊んでいるよりも働いていることの方が多かったそうです。 このため、少女の頃から口減らしのために早く自立したいと思い始め、1934年(昭和9年)に尋常高等小学校を卒業すると名古屋の看護学校に入学し、翌1935年(昭和10年)に看護婦の資格を取ってすぐに名古屋の病院に就職しました。 この時、お袋さんはまだ15才になったばかりでした。 オヤジさんが軍隊に召集されたのがその2年後の1937年(昭和12年)で、21歳の時ですから、お袋さんは社会人としてはオヤジさんよりも先輩ということになります。

その後、各地の病院勤めをした中で、1940年(昭和15年)頃、満州の鞍山(アンシャン、満州における製鉄産業の中心地。現在も遼寧省の製鉄都市として有名)の製鉄病院に1年間ほど勤務したことがありました。 1941年(昭和16年)、その製鉄病院からまた名古屋の病院に戻って来て間もない頃、蒲郡の両親のところにオヤジさんとの見合い話が持ち込まれたのです。 すでに21歳になっていたお袋さんは、実家の家計を助けるためにもできれば早く身を固めた方が良いと考えて、オヤジさんと見合いした後、特に反対することもなく、結婚話は両親に任せっぱなしにしていました。

その後、忙しさにかまけてお袋さんもその結婚話をすっかり忘れていましたが、お見合いから3年もたった頃、相手が長春勤務になり安定した生活ができるようになったから、もう一度結婚話を進めたいと両親から連絡があったのです。 お見合いのすぐ前に満州で暮していたことのあるお袋さんは、それならばとオヤジさんのもとに嫁ぐ決心をし、単身で満州に渡ることにしました。 この時お袋さんは、満州に渡って、もしオヤジさんに会えなければ、以前勤めていた鞍山の製鉄病院に頼み込んでまた働かせてもらえばよいと、気楽に考えていたそうです。

オヤジさんと同様、お袋さんの方も相手の顔をすっかり忘れていましたが、かなり若い頃から自立していて、ひとりでも生きていける自信がありましたし、満州もまんざら知らない土地でもなかったのでそれほど不安はなかったと言います。 何しろけっこう負けん気の強いお袋さんのことですから、その言葉をまるまる信用するわけにはいきませんが、当時のうら若い女性としてはけっこうバイタリティのある方だったことは確かでしょう。

1944年(昭和19年)6月、お袋さんは単身満州に渡り、満鉄(大連・長春間を本線とする南満州鉄道の略称)の有名な特急アジア号に乗って長春駅に到着しました。 相手には一応の到着予定日が知らせてありましたが、何しろ満州という所は非常におおらかでのんびりとした所で、物事が予定通りきちんと進行する方が珍しいくらいでしたので、お袋さんが長春駅に到着したのは予定よりも数日遅れてしまいました。

到着が遅れた上、相手の顔も忘れていますから、長春駅に降り立ったお袋さんはさすがに心細く、おどおどとあたりを見回しました。 すると少し離れたところに、大きな文字で「杉本龍典(オヤジさんの名前です)」と書かれた旗を持ったオヤジさんが、悠然とあたりを眺めながら立っていたのです。 大連・長春間を連絡する特急アジア号は1日に1本しかありませんでしたので、オヤジさんは、お袋さんの到着予定日の数日前から、毎日、アジア号が到着する時間に合わせて長春駅に行き、名前を書いた大きな旗を持ってアジア号から下りる人達を眺めていたそうです。

こうして花嫁衣装を着ることもなく、結婚式も記念撮影も新婚旅行もないままに、長春に到着したその日からお袋さんの新しい生活が始まりました。 結婚した時、オヤジさんはまだ国境警備隊に勤務していたのですが、お袋さんのために長春に住む場所だけは何とか確保していました。 長春には関東軍用の官舎があったので、結婚の知らせを受けた後、オヤジさんは慌ててその中のひとつを割り当ててもらうように申請し、お袋さんが到着する前にどうにか確保することに成功したのです。 しかし結婚してからもしばらくの間は国境警備隊勤務が続き、オヤジさんは長春の新居にほとんどいませんでした。 お袋さんは「話が違う!」と腹を立てましたが、今更、鞍山の製鉄病院に行くのもナンでしたのでじっと我慢していました。

それから数ヶ月後、オヤジさんは関東軍の酒保労務主任として長春勤務になり、ようやく長春の新居に落ち着くことになりました。 そして翌1945年(昭和20年)の4月に最初の子供が生まれ、オヤジさんの名前から一文字を取って「龍夫」と名付けられました。 これが僕の兄貴です。 しかし、やっと落ち着いた生活ができるようになったのも束の間、すでに日本の戦局はどうしようもないほど悪化していて、それからわずか4ヶ月後には最悪の非常事態を迎えることになります。

日本人の満州からの総退去と、日本の無条件降伏です。