玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー行雲流水

【第3章 敗戦】

1945年(昭和20年)8月9日未明、突然、長春の町に空襲警報のサイレンが鳴り響きました。 そのサイレンで目を覚ましたオヤジさんとお袋さんが、すぐに枕許のラジオのスイッチを入れると、「国籍不明の小型爆撃機と思われる飛行機数機が新京(長春)上空に向かって侵入中」という中部防衛司令部の発表が流れています。

オヤジさんはお袋さんと生後4ヶ月の兄貴を庭先の防空壕に待避させると、軍服に着替えて壕の入り口で待機しました。 その夜は月のない真の闇夜で、その闇の中から次第に飛行機の爆音が近づいてきます。 その音から推測すると、どうやら中型爆撃機が数機飛来してくるようです。 やがて爆音が真上あたりに来ました。 相当に低空飛行をしているようです。 その音を頭上に聞きながら、オヤジさんは軍刀を握りしめていた手がじっとりと汗ばみ、冷や汗が脇の下を流れ落ちていくのがはっきりと感じられたそうです。 お袋さんの方は防空壕の中で兄貴を抱きしめながら、膝がガクガクとして全身の震えが止まらなかったと言います。 しかし、幸いなことに爆撃機はそのまま通りすぎ、しばらくするとかなり離れた所で数発の爆発音が連続して数回起こりました。

爆撃機が飛び去って間もなく、オヤジさんの所属部隊(関東軍酒保)から非常呼集の連絡が入り、オヤジさん達の部隊全員が講堂に集合しました。 そこで部隊長から「先程の空襲はソ連機によるものであり、ソ連は空襲の直前に日本に対して宣戦を布告した」との伝達がありました。 当時の状況からしてアメリカかイギリスの空襲ではないかと憶測していたオヤジさんは、思いもよらないソ連機による空襲とソ連の宣戦布告に愕然としましたが、ちょっと前まで国境警備隊に所属していて、ソ連軍とも対峙したことのあるオヤジさんは、同時に一種異様な緊張感と奇妙な高揚感が身体にみなぎるのを感じたそうです。 しかし、その複雑な熱気はすぐに深刻な悲壮感へと変わることになります。

翌朝早く、「女子隊員と隊員の家族は1週間分の食料と自分で運搬できる程度の身の回りの荷物を持ってすぐに集合し、男子隊員はその後で別の場所に集合せよ」という命令が出されたのです。 その命令を聞いたオヤジさんは事態が予想以上に急迫していることを感じ、前日の複雑な熱気が深刻な悲壮感に変わっていったと言います。

お袋さんの方はただもう驚き、大急ぎで家中を整理し、結局、自分の物は何も持たず、兄貴の衣類とオムツと食料だけを持ってあわてて集合場所にかけつけました。 そこには大勢の女子隊員と家族達が一様にあわてふためいた様子で集まっていましたが、やがてその人達は軍のトラックに乗せられて、慌ただしくそこから去って行きました。 この時、その人達の行く先は本人達にも、後に残ったオヤジさん達にも知らされませんでした。 そして言葉を交わす間もないこの慌ただしい別れが、多くの家族達にとってそのまま最後の別れとなったのです。

ソ連の突然の参戦を「日ソ中立条約に背いたソ連の卑怯な暴挙」と言う人もいますが、この年の4月に、ソ連は期限満了(同年4月)後の日ソ中立条約の再締結を拒否していますので、政府および軍隊上部では、近い将来、ソ連の参戦が有り得るかもしれないことをある程度予期できたと思われます。 また明確な最後通牒を通告せず、宣戦布告前や宣戦布告直後にいきなり奇襲をしかける作戦は、マレー半島奇襲攻撃や真珠湾奇襲攻撃に代表されるように(どちらも宣戦布告前の奇襲攻撃)日本軍の得意とするところですから、他国に同じ作戦をやられたからといってあまり文句を言える立場ではありません。

実は、同年2月に行われた連合軍側のヤルタ会議で、イギリスとアメリカがソ連に対してドイツ降伏後2〜3ヶ月目のソ連の対日参戦を要請し、ソ連はその見返りとして千島列島を領土とするという条件で承諾していました。 さらに同年7月に行われたポツダム会談で、アメリカとソ連はソ連の対日参戦予定日を相談し、その結果アメリカはソ連の影響力を極力抑えるために、ソ連の参戦前に対日原爆投下を行うことを決定していたのです。

こうして7月26日、日本に対して無条件降伏を勧告したポツダム宣言の公表、7月28日、日本政府によるポツダム宣言の黙殺表明、8月6日、アメリカによる広島への原爆投下、8月8月、ソ連による対日宣戦布告と満州への進攻開始、8月9日、アメリカによる長崎への原爆投下、8月10日、日本政府のポツダム宣言受託表明、8月15日、日本国民に対する天皇の敗戦の詔勅放送(いわゆる玉音放送)……と、太平洋戦争(を含む第2次世界大戦)は急転直下終結に向かうことになります。

さて、隊員の家族達と女子隊員を送り出した日の夕方、オヤジさん達は軍のトラックに乗せられ、長春の駅前広場に連れていかれました。 その広場には役人、軍人、商人、一般市民などあらゆる種類の日本人が詰めかけていて、身動きもできない状態の中で、お互いに血相を変えてもがき合い、怒鳴り合い、叫び合っていました。 その有り様を見たオヤジさんは、今更ながらに事の重大さを痛感すると同時に、関東軍は、満州は、そして祖国日本はこれから先一体どうなっていくのだろうと、心の底から不安を感じたと言います。

そうこうするうちにオヤジさんの部隊に転進命令が下され、オヤジさん達は関東軍用の転進列車に乗りました。 その列車は20数両編成の貨物列車で、1両あたり50〜60名の割合で主に関東軍の軍属が乗せられていました。 この時、行く先や目的などは一切知らされませんでしたが、軍隊では「転進」が「退却」の別名であることは公然の秘密でしたから、オヤジさんは満州南部の瀋陽(シェンヤン、当時の奉天)、あるいは朝鮮半島あたりに向かうのではないかと憶測しました。 やがて列車は発車し、数日後、瀋陽の南、現在の朝鮮民主主義人民共和国との国境に近い丹東(タントン)という町に到着します。 時に、1945年(昭和20年)8月15日の早朝でした。

丹東駅に到着してしばらくすると、停車場司令部から「本日の正午にラジオで天皇陛下の重大放送があるから、転進列車の乗員全員は11時50分までに駅前公会堂に集合してください」という連絡がありました。 その時、オヤジさん達はあまり重大事とは思わず、「おそらくソ連に対する宣戦布告の放送だろう」などと話し合っていたそうです。

やがて正午になり、転進列車の乗員全員が駅前公会堂に集合すると、ラジオの放送が始まりました。 ところがその時の放送は雑音が非常に多くてよく聞き取れず、内容がすぐには理解できませんでした。 そのためみんなで色々と話し合い、断片的な情報を総合したところ、どうやら日本はアメリカとイギリスに対して降伏したらしいという結論に達しました。 しかし何しろ突然でしたし、事が事でしたので、大部分の人が半信半疑で、中には「この放送は敵の謀略だ!」と言う人もいたということです。

放送が終了して間もなく、丹東の町のあちこちで喚声が起こり、散発的な銃声がしたり、火事のような煙が上がったりして、あたりが急に騒がしくなってきました。 駅員に尋ねたところ、満州の中国人達が日本の支配から脱したことに狂喜して、家から飛び出して歓声を上げたり、日本から押し付けられた国旗などを焼き捨てて大騒ぎしているとのことです。 それを聞いてようやく日本の敗戦が確定的であることを認識し、オヤジさんは事の重大さに思わず全身が震えたそうです。

そんな状況の丹東を後にして、オヤジさん達の列車は朝鮮に入り、その日の夜にピョンヤン(平譲、現在の朝鮮民主主義人民共和国の首都)に到着しました。 途中、いたる所で丹東の町と同じような騒ぎが起きていて、列車から見える民家や農家の軒先に、見たことのない旗が掲げられていることにオヤジさんは気がつきました。 ピョンヤンの駅員に尋ねたところ、「敗戦の放送が終了すると同時に、朝鮮は日本からの独立を宣言し、各地で日本の神社や仏閣などを焼き打ちにしたり、日の丸の旗や日本語の本を焼き捨てたりしている。そして多くの家で朝鮮の国旗を掲げている」とのことです。

それを聞いたオヤジさんは、長い間日本に支配されていた朝鮮の人々がこれほど早く独立行動を起こし、国旗まで掲げているという事実に戦慄を感じると同時に、自国の風俗習慣も、言葉も、名前までも否定され、強制的に日本風に変更させられた朝鮮の人々の激しい屈辱感と、それに屈しない誇りの高さに強い感銘を受けたそうです。

ピョンヤンに到着したオヤジさん達は日本軍の平譲兵器廠に収容され、中隊、小隊、分隊などに再編成されて疎開部隊と名付けられ、疎開生活に入りました。 疎開生活に入ってからしばらくして、オヤジさんは疎開部隊が朝鮮半島を南下するための準備をする設営部隊の分隊長に選ばれ、汽車でピョンヤンを出発しました。 最初にソウル(同時の日本名では京城)駅に着いてみると、駅の内外に大勢の日本人が詰めかけて、必死になって南下しようとしていました。 そこで停車場司令部に行き、司令官に尋ねたところ、「数日後にここへアメリカ軍が進駐することになったので、目下、在留邦人の引き揚げに全力を挙げている。 我々もそれまでに一切を処理して、プサン(釜山、朝鮮半島南端の港町)へ南下の予定」とのことです。

「一切の処理」の中には書類関係と野戦倉庫などの焼却処分が含まれていましたので、オヤジさんは無理に頼み込んで貨車1両分の食料を譲り受け、その貨車に乗って南下を続けました。 ところがソウル以南の駅では、列車が止まるたびに大勢の日本人がその貨車に便乗したいと頼み込んでくるので、仕方なく次から次へと受け入れ、そのうちにデッキも連結器の上も、屋根の上までもが人間でいっぱいになりました。 こんな状況だったので列車はノロノロ運転しかできず、ついにテグ(大邱、プサンのすぐ北の町)まできて止まってしまいました。

オヤジさんが駅に下りてみますと、駅舎も、プラットホームも、南方への線路の上も、日本人で溢れかえっていてにっちもさっちもいきません。 その人達は約半数が一般人で半数が兵隊でしたが、その兵隊達は軍服こそ着ているものの、丸腰で星章も階級章もみんなはずしていました。 不審に思って尋ねたところ、朝鮮駐屯の日本軍部隊が現地解散をし、その元兵隊達が各地から南下してきているとのことです。

この時テグは朝鮮のテグ治安隊と、治安維持のために朝鮮側の希望によって解散を延期した残留日本軍とによって警備され、住民達によって組織された治安維持会が行政を行っていました。 オヤジさんはそれらの機関に出頭し、ピョンヤンの疎開部隊の受け入れを依頼しましたが、テグでは昼夜の区別なく続々と南下してくる多数の日本人避難民の受け入れに困り抜いていましたので、オヤジさんの依頼を引き受けてくれるはずはありませんし、実際問題としてもそこに疎開部隊が移動してくることは不可能でした。

そこでオヤジさんはこのことを疎開部隊に連絡すべく、部下全員とソウルで譲り受けた食料をテグに残し、単身、ピョンヤンまで北上することにしました。 当時の満州や朝鮮半島では、長年の日本の侵略支配と日本人の暴虐非道ぶりに対する反動として、日本人に対するリンチや暴力行為が頻発していましたので、日本人が単独で行動することは命がけでしたが、スパイまがいの活動もしていたオヤジさんは中国人に化けることはお手のものでしたから、単独の方がむしろ行動しやすかったのです。

テグを出発したオヤジさんは中国人に化け、ある時は徒歩で、またある時は汽車を利用して北上し、数日後、ソウルに到着しました。 ソウルに着いてみると、以前とは様相が一変していました。 日本軍の撤退と解散、残留日本軍の武装解除、南朝鮮へのアメリカ軍の進駐、北朝鮮へのソ連軍の進駐、南北両朝鮮の分裂、南朝鮮民政府(現在の大韓民国)と北朝鮮共和人民政府(現在の朝鮮民主主義人民共和国)の樹立、北緯38度軍事境界線の設定とその境界線での南北朝鮮の交通遮断等、わずかな期間に大きな状況の変化があったのです。 それらの事実を知った時、オヤジさんは非常に驚きましたが、同時にやはり来るべきものがついに来たとも感じたそうです。

そのうちに、南下して来た日本の避難民から、ピョンヤンの疎開部隊らしき関東軍の軍属や軍属の家族らしき人達が、ソ連軍の捕虜となって北朝鮮各地の捕虜収容所兼難民収容所に収容されているらしい、という噂を聞きます。 それを聞いたオヤジさんは、ピョンヤンの疎開部隊に南朝鮮の状況を報告するとともに、何としても妻子を見つけ出そうと決心し、さらに北上を続けることにしました。

当時の状況では、38度線を突破して北朝鮮に潜入することは非常に危険でしかも困難でしたが、色々と奔走しているうちに、アメリカ軍の軍使を乗せた特別列車がピョンヤンに行くという情報を入手しました。 そこでオヤジさんはソウル駅の駅員に事情を話し、特別列車に便乗してピョンヤンに行きたいから駅員の制服を貸して欲しいと頼みます。

駅員達は驚いて、「大勢の日本人が命懸けで南下してくるというのに、命懸けで北朝鮮に潜入するなんて正気の沙汰じゃない。 だいたいピョンヤンの疎開部隊がそのまま存在する可能性は低いし、今更こちらの状況を報告しても無意味だ」と反対しましたが、オヤジさんは無理矢理頼み込み、何とか制服を借りることに成功しました。 そしてそれを着て駅員になりすますと、特別列車の機関車に乗り込み、あらゆる日本人が必死になって南下している中、ただひとり北朝鮮目指して北上したのです。