玄関小説とエッセイの部屋小説コーナー僕達の青春ドラマ

【第3章 「承」の章】

しばらく泳いでいると、それまで晴れていた空に黒い雲が広がり始め、空模様が怪しくなってきたので、僕等は海水浴を切りあげて別荘に戻った。 別荘の裏にシャワー室があるので、そこでシャワーを浴び、着替えを済ませてみんなでだべっていると、案の定、怪しかった空がとうとう泣き出してしまって、だんだん激しい雨足になってきた。 そこへ、絵のコレクションを披露するから展覧室に集って欲しいと、女中の白石さんが呼びに来た。 どうやら、雪子さん言うところの「父の道楽」が始まったらしい。

ホールの隣が展覧室で、僕等がそこに行った時には他の人達はもうみんな集まっていた。 展覧室はホールと同じくらいの広さだろうか、やっぱりやたらと広い。 中央に南北方向に衝立のような壁があって、部屋は東西二つの部分に仕切られている。 そして部屋の北側にも東西方向に同じような壁があって、その後には耕平氏の書斎と管理室があるということだった。 展覧室全体は薄いベージュ系統の色調でまとめられ、あたり構わず(と僕には思えたんだ)種々様々な絵が飾ってある。 見る人が見れば色々と面白いんだろうけど、もちろん僕には「(多分)絵だ(ろう)」ってことしかわからなかった。

みんなが集まると、耕平氏がさすがに喜々とした得意げな態度で──子供がオモチャを見せびらかす時の、あの態度なんだ──絵の作者や由来を一枚一枚説明し始めた。 笹岡家の人達は説明のたびに「ほおー!」とか、「まあ!」とか、「なるほど!」とか、盛んに感嘆の声を上げているけど、こちとらまるでチンプンカンプン、写実的なヤツはまだいいけど、抽象画となるともういけない、上だか下だか、右だか左だかさっぱり見当もつきゃしない。

僕ですらこのざまだから、いわんや伴ちゃんをや、だ。 伴ちゃんときたひにゃ、目にするもの全てがまるっきり理解の範囲外にあることは誰の目にも明らかで、人も部屋もほとんど目に入らない様子で、 足元もおぼつかなく、やたらと人や壁にブチ当たったあげく、ミミちゃんに腕を取られて、やっとどうにか物に当たらずに歩いているようなていたらくなんだ。 ミミちゃんも絵なんてほとんど目に入っていない様子で、ニコニコと楽しげに伴ちゃんの介添え役をしている。 いくら演技とはいえ、それはもう見ていて腹が立つほどかいがいしいガールフレンドぶりなんだ。

こんな僕等に侮蔑の視線を投げつけながら、笹岡家の人達は抽象画を前にしても、相変らず「ほおー!」、「まあ!」、「なるほど!」を連発して、さも感に耐えないってな顔をしている。 でも、本当にわかっているのかどうかは怪しいもんだ。 ああいった手合いは、チンパンジーの落書きだって、りっぱな額に納め、

「これこそ、かの有名なだれそれ画伯の傑作です!」

とやれば、やっぱり今みたいに「ほおー!」、「まあ!」、「なるほど!」とくるだろう。 彼等──を代表とする俗世間一般の人達、と言っても決して過言じゃないと思うよ──にとっては、要は絵の内容じゃなく作品や作者の知名度とか評判であって、自分が内容を理解することよりも、理解したがごときポーズを取ることが重要なんだ。 もちろん僕だって何にもわかっちゃいないんだから、偉そうなことを言えた義理じゃないってことぐらいよくわかってるつもりだけど、何事も自分の目で確かめて、正直に自分なりの意見を持つようにし、「絵を耳で批評する」ようなことだけは金輪際しないようにしたいと思っているんだ。

一通り説明を終えると、耕平氏はいたずらっ子のような表情になって、一段とはずんだ口調になった。

「えー、ではこれから、一番最近のもので、まさしく本邦初公開というのを御覧にいれましょうかな。 ……中川君!」

北側の壁の陰から、ビジネスマン風の青年が手さげ金庫のデッカイやつを持って現れた。 手さげ金庫はB4判より一回り大きいくらいの大きさで、高さが20センチほどあり、前面にダイヤルと鍵穴が付いている。

雪子さんがその青年を一瞬チラッと見て、すぐ視線を床に落としてしまった。 その瞳には、静かな、だけど強い火が点じられているのが隣にいた僕にはよくわかった。 彼が雪子さんの本当の恋人、中川さんなのだ。 長身で、どことなく加藤剛に似た感じの二枚目だし、誠実そうな、責任感の強そうな表情だった。 残念ながら僕なんかとは雲泥の差、雪子さんにはふさわしい相手だろう。

横で、雪子さんの体が微かに揺れ動いているのを感じた。 本能的に僕から離れようとするのを、意志の力で無理に押しとどめているかのようだ。 僕は中川さんを見ながら、それとなく雪子さんから体を徐々に離していった。 僕等の姿は中川さんの視線の隅に入っているはずだけど、はたして僕の気持ちが中川さんに通じただろうか?

「つい先だって、ヨーロッパに行った時、フランスの取引先の社長から特に譲り受けたもので、なかなかの珍品なんですな、これが」

中川さんは手さげ金庫から何枚もの絵らしきものを取り出し、無言で耕平氏に渡した。

「このように、まだ額にも入れず、よく整理もしてないのですが、江戸後期と思われる北斎風の浮世絵でしてね。 全部で38枚あり、作者は北斎の一派らしく、御覧のように作風が実に似通ってますな」

耕平氏は絵を次々と客に手渡しながら、解説を続けた。

「浮世絵が最初にヨーロッパに渡ったのは、輸出用陶器の割れを防ぐ詰物としてであって、それを見たフランスの若い画家達に大きな影響を与えたことは、有名な話ですからご存じの方もいらっしゃるでしょう。 その後、フランスで日本ブームが起こり、色々な浮世絵が輸出されたのですが、これらの作品もそういったもののひとつだと思われますな」

僕のところにも数枚回ってきたので見てみると、それは浮世絵によくある、町人達の生活と景色とを描いた風俗画だった。 どの絵もみな同じような題材で、一連の風俗画シリーズといったところなんだろう。 絵は厚手の台紙の上に貼られていて、その上に、絵の汚れを防ぐためだろう、トレーシングペーパーのような半透明の紙が貼ってある。 そして絵そのものは色々な大きさだけど、台紙はみんなB4判くらいの大きさに統一されている。 これは、手さげ金庫にちょうどスッポリと収まるように工夫されているらしい。

笹岡家の人達は、相変らず口々に「素晴らしい!」とか、「これは、これは!」とかいった、感極まったような声を上げている。 そして、こちとらも相変らずポケーッとしたままだ。 耕平氏の態度からして、確かに貴重なものだってことくらいは想像がつくけど、どこが素晴らしいのか、他の絵とどう違うのかなんてことは、残念ながらまるで見当もつかない。 伴ちゃんなんか根が純真だから、それでも渡された絵を一生懸命見ているけど、依然としてボケの見本のような表情だし、ミミちゃんときたら興味のないことを隠そうともせず、渡された絵におざなりな一瞥を与えただけで、次々と隣の人に回してしまっている。

絵が全て耕平氏の手元に戻ってくると、彼はさもいとおしげにそれらを眺めてからようやく中川さんに渡した。 中川さんは黙々と絵を金庫にしまいこみ、出て来た壁の陰に消え、後の部屋に入ったんだろう、すぐにガチャリというドアの閉まる音が聞こえてきた。 とうとう最後まで雪子さんの方を見なかった彼を、何となく好きになれそうな気がして、 ドアの閉まる音を耳にすると同時に、何か忘れ物をしたような、何かやり残したような思いにかられてどうしようもなくなった。

僕の気持ちを何とか彼に伝えなくちゃならない!