玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー選挙四方山話

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今回の選挙活動を通してあらためて実感したことは、「この国民にしてこの政府」つまり「国は、その国民のレベルに応じた政府しか持てない」あるいは「地区は、その地区の住民のレベルに応じた議員しか持てない」ということです。 選挙とは候補者を試すものではなく、実は有権者を試すものなのです。 しっかりとした見識を持ち、大局的な立場で物事を判断できるかどうかを問われているのは、本当は有権者であって候補者ではありません。

会社でいえば住民は株主であると同時にユーザーに相当し、政府は株主に任命された取締役会に相当し、公務員は社員に相当します。 株主は会社が置かれた社会環境と取締役の経営手腕を的確に評価して、会社にふさわしい取締役を任命できるだけの目を持っている必要があります。 そのためには、いざとなったら自分でも経営ができるくらいの能力を持っているのが理想的です。 「民主主義とは、主にふさわしい民が行う政治である」というのが僕の昔からの持論ですが、この持論は、このような住民=株主理論(^^;)に基づいています。

政治家を見れば、その土地の住民のレベルがある程度わかります。 だめな政府、だめな政治家を選んだのは、結局のところ国民や住民なのです。 主にふさわしくない政治家がのさばっていられるのは、主にふさわしくない住民が沢山いるおかげです。

僕等の作戦ミスをはっきりと認識した僕は、新町会議員のRさんに、こういうことは今後も起こるだろうから、このままズルズルといいなりになるよりも、いつかは態度をはっきりさせる方が良いと助言しました。 たとえそのことで今の後援会の幹部の人達と袂を分かつことになっても、自分の信念どおりに行動して、それに賛同してくれる人達を草の根的に増やしていく活動をすべきであり、それによって支持者が少なくなるのなら、それはそれで仕方がないと助言しました。

Rさんもそういうことは十分にわかっていて、徐々にそのように行動することを決心したようでした。 しかし今の後援会の人達の協力で当選した以上、その人達のためにできるだけのことをしながら、自分の信念を貫くべきところは貫いて、自分なりの活動をしていきたいという考えでした。 これもまた、折衷的かつ妥協的な生ぬるい方針ではあります。 しかし僕が新町会議員の立場だったとしても、おそらくそのような方針を取るだろうと思えたので、僕もその方針に賛成しました。

Rさんがそのような岐路に立たされている時、偶然にも、僕も仕事の上で岐路に立たされていました。 区長を辞めた後、会社で区長の仕事をやりすぎたせいか、それとも元々悪徳窓際幽霊社員だったせいか、25年ほど所属していた部署から別の部署に転属になりました。 そして、それまでやってきたデータ解析の仕事がやりづらい環境になりました。

データ解析の仕事は、最初は会社の業務のために自分で開拓して始めた仕事です。 ところがその仕事をけっこう気に入ってしまったので、会社の業務とは関係のない分野にまで手を広げ、その分野での仕事はほとんど個人的にやっていました。 その結果、会社の業務としてデータ解析の仕事をするというよりも、データ解析の仕事をするために会社を利用するという状態になっていました。 しかし色々な社会環境の変化によって、会社でデータ解析の仕事をすることが難しくなり、転属によってさらに難しくなってしまいました。

そこでデータ解析の仕事に専念するために、そろそろ会社を辞めてフリーになろうと考え始めました。 そしてその少し前に、会社に早期退職制度ができていました。 その制度は55歳以上になると適用されないため、フリーになるとしたらここ数年間がチャンスでした。

一方、区長の時、東海地震の勉強会に参加して、自分の家が非常に危ない状態であり、早急に補強工事をするか、それとも建て替えなければならないことを知りました。 ところが、建物が立っている土地そのものが軟弱なため、いくら建て替えても決して安全とはいえないこともわかりました。 そこで色々と計算したところ、家を建て替えるよりも、その費用で丈夫な土地のマンションを借りた方が安全で、しかも安上がりなことがわかりました。

僕の顧客は近郊の大都市であるN市の研究者が多かったので、会社を辞めてフリーになるとしたら、N市の都心のマンションを借り、そこを事務所兼住居にするというのが便利です。 しかし地元の自治会と後援会活動のことがあったため、なかなか踏ん切りがつかず、決断をズルズルと先延ばしにしていました。

そんなこんなで公私共に岐路に立たされている時、思いもかけなかった事が起こりました。 自治会活動を通して知り合い、人生の師と仰ぐようになった尊敬すべき人物のOさんが、突然亡くなったのです。 これは僕にとっては、父親が死んだ時以来のひどいショックでした。 そしてさらにその数ヵ月後、やはり自治会活動を通して知り合ったもうひとりの人生の師Hさんが、後を追うようにして亡くなりました。

Oさんは地家の人であり、Hさんは他の土地から移住してきた新興住宅の人でした。 しかし考え方がよく似ていて、しかも同じ年齢で同じように自治会の改革を進めた人でしたので、非常に仲が良く、お互いに信頼し合っていました。 僕はそのふたりを勝手に人生の師と決め、自治会のことだけでなく、色々な事柄について教えを乞い、敬愛していました。 僕が行った自治会の改革は、そのふたりが中心になって進めていたことを継いだものであり、そのふたりに導かれ、どちらかといえばその人達に認められたくてやっていたようなところがありました。

そのせいか、そのふたりが亡くなったことにより、自治会と後援会に対する僕の熱意は、憑き物が落ちたように急激に醒めてしまいました。 そしてそのふたりの死の間に、我が家の愛犬ブンも、犬としては長い生涯を終えました。 偶然とはいえこの相次ぐ死は、まるで、この土地での僕の役目はもう終わったから、そろそろ次の土地に移って次の目的を見つけろと、僕に決心を促しているかのようでした。 そこで僕はついに住み慣れた土地を離れてフリーになる決心をし、N市の都心のマンションを探し始めました。

そのふたりの死の間に、後援会の主催による本格的な当選祝い会がありました。 その時にはもう選挙後3ヶ月以上経っていたため、当選祝い会を堂々と開催することができたのです。 この会も、もちろん僕が司会進行役をしました。 この時は後援会に対する熱意が半分ほど醒めていたので、逆に気楽に楽しく司会をすることができました。 そしてこの時も、例によって食費だけ会費を集め、Rさんがポケットマネーから酒代を出すという方式でしたが、僕はほとんど気になりませんでした。 人間、真剣さが薄れると、多少理不尽なことがあっても腹が立たなくなるもんです。

それからしばらくして、N市の都心にちょうど手頃なマンションを見つけたので、早速、そこに転居することに決めました。 カミさんの勤め先はN市の都心なので、そこは僕の新しい仕事にとっても、カミさんの仕事にとっても都合の良い場所だったのです。 実は、最初にN市のマンションに転居するという案を考えたのはカミさんでした。 カミさんは都会で暮らしたことがないので、一度は都会暮らしを体験してみたいと考えていたのです。 このため、カミさんは都会暮らしが体験できるので大喜びでした。

Rさんには、仕事の都合で引っ越すことになったため、後援会を脱会したいと申し出ました。 そして、それまでに集めた自治会に関する資料を全て渡し、自治会活動を通して知った色々な事柄を全て話しました。 そして最後に、いつかは態度をはっきりさせ、自分の思い通りに行動するのが一番良いと思うと再度助言しました。 僕がいなくなることによって、Rさんが色々と苦労するだろうことはわかっていました。 このため正直にいえば、同志を戦場の最前線に残して自分だけ退却するような、そんな申し訳ない気がしました。 しかしRさんならば、何とかなるだろうという気もしていました。

それからもうひとり、僕が自治会活動を通して知り合った人の中で、尊敬している人がいました。 その人は、長年にわたってA地区の文化財保存会の会長をしているTさん(仮名)です。 Tさんの地道で辛抱強い努力によって、A地区の保存会は町で一番盛んになっていました。 そしてTさんは自治会の改革にも積極的だったので、色々な事柄について相談し、助言してもらっていました。 Tさんに対しては、やはり同志を戦場に残して自分だけ撤退するような、そんな申し訳ない気がしていました。 そしてその思いは、どちらかといえばRさんに対する思いよりも強いものでした。 人生の師と仰いだOさんとHさんが相次いで亡くなり、その土地に対して思い残すことはほとんどありませんでしたが、唯一、Tさんに対してだけは、後ろ髪を引かれるような申し訳ない思いが残りました。