玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー選挙四方山話

2

そういった、地元のA地区を二分する前代未聞の勢力争いが展開されている真っ最中に、勢力争いのことはもちろん、地元のことも、区長という役目のことも、自治会のことも全く知らないドシロウトで能天気な僕が、こともあろうに次期区長として名乗りを上げたのですから、どちらの派閥の人達も大いに戸惑ったようです。 それまで僕は地元の人達には全く知られておらず、正に「どこの馬の骨とも知れない若造」でした。 事実、「次の区長は、何だかわけのわからん若造だそうだ…!」という噂が、地元の人達の間で盛んに飛び交っていたそうです。

それでも選挙前に、両陣営の立候補者と後援会の役員が、一応は僕の家に挨拶に来ました。 その時は、僕はまだそういった事情を全く知らなかったので、一介の住民にすぎない僕なんかにわざわざ挨拶に来るとは、何と律儀な立候補者だろうと感心したものです。 しかしどちらの陣営も、とりあえず遠巻きにして様子を見ているといった感じであり、僕に積極的な働きかけはしてきませんでした。 おかげで本来なら勢力争いの渦中に巻き込まれるはずの僕は、図らずもエアースポットのような奇妙な中立地帯に身を置くことができました。

その年の町会議員選挙では、結局、現職議員のMさんが当選して、新人候補者のSさんは落選しました。 Mさんは約600票という下から2番目の低い得票数で滑り込み、Sさんは200票差の落選でした。 A地区には800軒ほどの戸数があり、1600人以上の有権者がいました。 このため、それまでの地区出身の候補者は概ね800票以上は獲得していました。 町会議員選挙の当選の目安は600票程度ですから、けっこう楽々と当選していたわけです。

しかしこの年は、同じA地区から立候補した2人の候補者に票が分かれた結果、危うく共倒れするところでした。 しかも、それまで経験したことのなかった地区を二分する激しい選挙戦のしこりが住民の間に残り、自治会の運営など色々な面に悪影響が出るようになりました。 そしてこのことが、その4年後の選挙戦に僕が巻き込まれることになった要因のひとつです。

後からわかったことですが、2人の候補者は、本人の家に近い人には人気がなく、家から遠くて本人をよく知らない人には人気がありました。 つまり候補者の地元ほど批判票が多く、地元から離れるほど期待票が多かったのです。 このあたりが人間心理の複雑さというか、面白さでしょう。 区長になった後で僕はどちらの人とも付き合うようになり、その理由が大いに納得できました。

当選したMさんは、人は本当に良いのですが、政治手腕に欠け、地元住民の要望を聞いてそれを町に掛け合うとか、議会で発言するといったことがほとんどなく、2期8年間にこれといった実績を残していません。 つまり、

「いい人なんだけど、この人が議員じゃあ地元は良くならないだろうなぁ……」

と周囲の人に思わせるような人なのです。 それに対して落選したSさんは、かなり強引な政治手腕を持っていますが、権力欲が強くて人が悪く、色々な人に迷惑をかけていました。 つまり、

「この人が議員になったら、地元は大変なことになる!」

と周囲の人に思わせるような人なのです。

この2人はどちらも区長経験者であり、僕が区長になってから、2人がやったことの尻拭いをする羽目になりました。 特にSさんは区長の時にとんでもないことを色々とやっていて、多くの人達に迷惑をかけまくっていたので、それらの尻拭いをするのにひどく苦労しました。 そしてこのことが、その4年後の選挙戦に僕が巻き込まれることになった大きな要因です。

その時はまだはっきりわかっていませんでしたが、次期区長である僕にとって、議員が1人だけ当選したのは幸運でした。 お互いに反発しあっている議員が同じ地区に2人いれば、当然、住民も2派に分かれて争うことになり、区長としてはその調整に苦労したでしょう。 また地区出身の議員が1人もいなければ、町に色々な要望を掛け合う時に味方がおらず、やはり苦労したでしょう。

ともあれ地元の町会議員が決まったので、僕は次期区長として当選した町会議員宅に挨拶に行きました。 政治家や教師など「先生」と呼ばれる人種に対して根深い偏見を持っていて、尊敬してもいない人に頭を下げることを潔しとしない唯我独尊な僕が、町会議員の先生宅に尻尾を振りに行くとは、考えてみれば因果なことです。 しかし区長という役目のためには何でもやってやろうと決心し、完全な仕事モードになっていた僕は、あまり抵抗もなく頭を下げ、愛想笑いを振りまきました。

ところがその町会議員のMさんと親しくなるにつれ、あまりの人の良さと朴訥さにあきれて、すっかり好意を持ってしまい、町会議員という人種に対する偏見が多少は薄れました。 そして区長になった後、Mさんに連れられて町役場や町長や地元政界の有力者に挨拶に行き、政治家やその周囲の人達と知り合いになりました。 また僕と一緒に自治会の役員をやることになった人の中に、たまたま地元県会議員の秘書の奥さんがいて、その人を通しても色々な情報を手に入れることができました。 こうして地方政治と地方政治家の世界が朧気ながらわかってきて、政治家に対する偏見は次第に薄れました。

しかしその代わりに、新たな見解(あるいは誤解?(^^;))を持つようになりました。 これはあくまでも僕の独断と偏見にすぎませんが、世間一般の人間の世界では、正規分布理論に基づいて、分布の端の2割ぐらいの人が「(相対的に)良い人」であり、反対の端の2割ぐらいの人が「(相対的に)悪い人」、そしてその中間の6割ぐらいの人が「普通の人」といえるでしょう。

それに対して地方政治家の世界では、良い人の割合は同じく2割くらいですが、悪い人が4割ほどに倍増し、普通の人が4割に減って悪い人と同じくらいの割合になります。 ただし分布の幅が非常に広くて、良い人は本当に自然に頭が下がるほど尊敬すべき人ですし、悪い人はめったやたらと悪い人です。 このように幅が広くて歪んだ分布のせいで、良い人に比べて悪い人がやたらと目立つようになり、「政治家≒悪い人」という偏見または固定観念ができあがっているような気がします。

また政治家およびその周辺の人達と付き合えば付き合うほどわかってきたことは、そこは僕のような人間がいるべき世界ではないということです。 人種が違うというか、肌が合わないというか、居心地が悪いというか、とにかく僕が理想とする世界とは正反対といってもよいほど異質な世界です。 しかし区長という仕事を真剣にやればやるほど、そして僕の中にある、自分でも忌み嫌っている腹黒い手練手管を発揮すればするほど、必然的にその世界に深くかかわることになり、ついには選挙運動に引きずり込まれるような深みにはまってしまうことになりました。

さて、区長をやり始めてすぐに、自治会の運営方法がかなり前時代的なことに気づきました。 何しろ、前役員から引き継いだ自治会関係の書類の中に規約らしきものが全くなく、以心伝心的な口伝えによって運営を行ってきたため、年ごとの役員によってやり方がバラバラでした。 そもそも、自分達が運営しているのは地区の自治会だという自覚が、住民の間にほとんどありません。 その自覚の無さは、昔からの地家の人達ほど顕著です。 第2次世界大戦前にA地区が村だった頃の名残なのか、地家の人達は区長のことを村長か村議員のように考え、自治会費のことを「区費」と呼んで、まるで税金のように考えています。

しかしA地区はそれでもまだましな方でした。 他の地区では、自治会の規約はおろか会計簿すらも無いところが多かったのです。 そしてそういった地区で、意識の高い役員が規約を作ろうとしたところ、

「そんなおかしなものを作ると、それを悪用する奴が出てくるからいかん。 そんな紙切れがなくてもこれまでうまくやってきたんだから、このままでいいんだ!」

という意見が大半で、規約を作れなかったという地区——実は、A地区の隣の地区です——さえありました。

A地区は昔からの地家の農家が約40軒あり、残りの760軒は全て他の地区から移住してきた人か、一時的に住んでいるアパートの住人でした。 そして少し以前は、自治会の役員は全て地家の人が務めてきました。 しかし地家の人が役員をやりつくしてしまったため、最近は僕のように他の地区から移住してきた人が務めることが増えてきました。 このため、このままのやり方ではいずれは自治会の運営に行き詰まり、どちらの人達にとっても良いことではないと思った僕は、自治会を近代的なものに改革することにしました。 そしてこれが区長に立候補したことに続く大きな間違いであり、これによって僕はますます地方政治の深みにはまることになりました。

幸いなことに、僕と同じようなことを考えて、何年も前から自治会の近代化に取り組んできた人達が少数ながら存在しました。 その人達はほとんどが役員経験者であり、自分達の経験に基づいて作成した立派な改革案を持っていました。 そして役員が替わるたびにその改革案を新役員に提示して、できれば内容を検討して欲しいと依頼していたのです。 しかしほとんどの新役員は初めて役員を務める初心者であり、やたらと多い年中行事と雑務をこなすだけで精一杯でした。 このためその改革案をまともに検討しようという物好きは、僕以前には誰もいなかったようです。

意外にもその改革案を考えた人達の顔ぶれは、他の土地から移住してきた人達と地家の人達がほぼ同数でした。 そしてその改革案に反対していて、ひたすら因習的で頑迷に思えた反対派の地家の人達が、実は真剣に地区のことを考えていて、従来の運営方法がこの土地に一番合っていると信じるからこそ、改革案に反対していることがわかってきました。 そして従来の運営方法にも、歴史的な経緯に基づいたそれなりの合理性があることが次第にわかってきました。

移住してきた人達の中には改革案の賛成派も反対派もいましたが、大多数の人達は無関心派でした。 その人達は、自分の生活に影響が及ばない限りは何事にも無関心で、自分の生活に影響が及ぶことについては、町や地区の現状を知ろうともせずに自分の都合だけで我がままをいいまくり、役員や委員などの面倒な役目は引き受けず、ただひたすら逃げまくります。

典型的な無関心派だった僕は、最初のうちは「改革派である移住して来た人達対、反対派である因習的な地家の人達」という図式だとばかり思い込んでいました。 しかし区長をやり始めて、実はそうではなく、地家の人達のほぼ全員と、移住してきた人達のごく一部が、真剣に地区の活動に取り組んでいて、その人達の中に改革派と反対派がいること、そして移住してきた人達の大部分は無関心派であることがだんだんとわかってきました。 地家の人達が自分達の地区のことに真剣になるのは、よく考えれば当然であり、他の土地から移住してきた人達や一時的に住んでいる人達が、地区のことに無関心なのもある程度当然なことです。 こういったことを知った僕は、地区の人達に対する見方が180度ひっくり返り、自分の無知と偏見を大いに反省しました。