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○ピルトダウン原人

1911年、イギリス郊外に住む弁護士で、アマチュアの地質学者でもあったチャールズ・ドーソンは、サセックスのピルトダウンにある砂利層の中から古い骨の化石と石器らしきものを見つけました。 直感的にその骨が人類の祖先つまり原人の骨ではないかと思った彼は、それらをロンドンにある自然史博物館の地質部長、アーサー・スミス・ウッドウォードのところに持ち込みます。 これらの骨の化石と石器を詳しく調べた結果、ウッドウォードは、人間に似た頭蓋とサルに似たあごを持った原人が約50万年前にイングランドに住んでいたという結論に達し、考古学学会に発表しました。

進化論以後、人類と類人猿とは共通の祖先を持ち、数十万年前に分離したという理論が打ち立てられました。 しかしその当時は人類と類人猿との共通の祖先の化石は発見されておらず、「ミッシング・リンク」と呼ばれ、世界中の考古学者達がその化石を探し求めていたのです。

当時の考古学者たちは、人類と類人猿との共通の祖先である猿人の特徴として、次のようなことを考えていました。 すなわち人間は主として脳の大きさによって特徴づけられるから、サルから人間への進化は大きな脳を持つサルの出現と共に始まったに違いない。 そしてその後、食生活が変わるにしたがい、顎や歯が変化して、現在の人類のような顎と歯になったのだろう。 したがって共通の祖先である猿人は、人間に似た頭蓋骨とサルに似た顎の骨を持っていただろう。 そしてそのような化石を探していた最中に、正にそのものズハリの化石を発見したという、ウッドウォードの論文が発表されたものですから、考古学学界はたちまち色めきたちました。

もちろん学問の常で、ウッドウォードの結論に疑問を抱いた少数の科学者達もいました。 それらの原人の化石には、何となくすっきりしない不思議な特徴がいくつかあったのです。 例えばドーソンは頭蓋骨と顎の骨を一緒に見つけたのですが、その顎の骨はあまりにも猿に似すぎていて、どう考えても頭蓋骨と同じ個体のものとは考えれないこと、顎についていた歯は人間の歯のように上が平らにすり減っているけれども、顎の骨がサルのままで歯だけが先に進化するのは奇妙であること、などです。 しかしながらそのような反論は少数意見であり、多くの考古学者と世間一般の人は、その原人を探し求めていたミッシング・リンクとして認めるようになります。 そして発見者であるドーソンを讃えて、その原人には「エオアントロプス・ドーソニ(ドーソンの曙の人)」という学名が付けられ、「ピルトダウン原人」という通称で呼ばれるようになりました。

こうして1916年、ドーソンはピルトダウン原人の発見者として、栄光に包まれて世を去ります。 その後、さらなる確証を得ようと、ウッドウォード博士とその支持者達はピルトダウンで何年間も採掘を続けますが、不思議なことに、ドーソンの死後、その砂利層からはひとつの化石も発見されませんでした。 やがて、世界各地から古い原人の化石が続々と見つかり始めます。 ところがそれらの化石は、どれもサルに似た頭蓋骨と人間に似た顎の骨を持っていたのです。 どうやら、人類は頭蓋骨よりも顎と歯が先に進化したらしいのです。 さらに詳しい研究の結果、人類が進化した過程が次第に解明されてきて、ピルトダウン原人はその過程のどこにも当てはまらないことが明らかになってきました。

ピルトダウン原人発見から40年近くたった1949年、大英博物館のケネス・P・オークリーが、化石骨の中に含まれるフッ素を測定することによって、ピルトダウン原人は5万年以上前のものではないことを証明し、考古学学界は大混乱に陥ります。 そして1953年、ついにオックスフォード大学のJ・S・ウェイナーが、ピルトダウン原人は完全な偽造品であり、その偽造犯人は他でもないドーソンその人であったことを突き止めたのです。(最近の研究では、ウッドウォードも共犯であった疑いが出てきたとのことです)

この科学史上最も有名な詐欺事件は、多くの教訓めいたものを含んでいます。 例えば科学には大胆な発想と共に、慎重な態度と客観的なデータが必要不可欠であること、一般に考えられているのとは違って、科学者というものは詐欺やトリックにひっかかりやすい人種であること(科学者が常々相手にしている自然は、人間と違って嘘をつきません)、とは言え、最後にそのトリックを暴いたのが科学者であったことからもわかるように、決してバカではないこと、などなどです。

そして何よりも興味深い点は、人間の心の奥には奇妙ないたずら者が住んでいて、そいつは他人が騙されたりからかわれたりするのを見るのが大好きで、時には自ら人をかついで楽しもうとすること、またそれとは反対に、人間の心の奥には、ロマンチックで不思議な現象や、あったらいいと願望していることを目の前に見せられると、それを簡単に信じ込んでしまう心があることなどを、象徴的に暗示している点でしょう。 そういった不可思議な人間心理は、いつの時代でも似非科学や疑似科学の温床であり、抜け目のない商売人達の金の鉱脈となっているのです。

○失われた大陸

今から1万2千年ほど前、大西洋上にひとつの大陸があり、高度な文明が発達していたが、ある時、大爆発によって海中に没してしまった──これがかの有名なアトランティス伝説です。 アトランティス伝説はギリシャの賢人ソロンがエジプトの神官から聞き、それを哲学者プラトンが書き残したものに基づいています。 そしてプラトン以後、色々な人によって語り継がれ、1882年にアメリカの政治家兼オカルト的マッドサイエンティスト、イグネイシャス・ダンリー(古くはイグナシアス・ドネリーと表記)が、「アトランティス──大洪水時代以前の世界」という本を出版し、「聖書に描かれたパラダイスこそが幻のアトランティス大陸だ!」と説いたことにより、一躍世界中に知れ渡りました。

紀元前17世紀に、地中海のクレタ島の近くにあったサントリン島が、島にあった火山の大爆発のために、カルデラの一部を残してほとんど海中に没するという大惨事がありました(現在ではその一部がティラ島として残っています)。 その当時の地中海では、クレタ島などを中心としてミノア文明が栄えていましたが、その大爆発とそれに伴う大津波のせいでほとんど一夜にして滅亡してしまいました。

おそらくこの大事件がアトランティス伝説の元となったのであろうというのが、現代考古学の定説です。 火山灰の中から発掘されたミノア文明の遺跡からは、プラトンが書き残したアトランティス文明を髣髴とさせる文物が多数見つかっています。 ギリシャ時代には地中海とその周辺だけが全世界であり、ギリシャ神話などではエーゲ海が大洋、そこの島々が大陸、ギリシャの小さな山々が神々の住む大霊峰扱いされていますから、サントリン島の大惨事がアトランティス伝説を産んだとしても、決して不思議ではありません。

ダンリーがアトランティスに関する本を出版する少し前の1874年に、イギリスの動物学者フィリップ・ラトリー・スクレーターが、レムール(キツネザル)の地理的分布を説明するために、かつてインド洋にひとつの大陸が存在したと主張し、これを「レムリア大陸」と名付けました。 その当時、遠く離れた大陸で同じような化石が出土したり、その子孫と思われる同じような種類の動植物が生息することがわかってきて、地質学的にも生物学的にも大きな謎とされていました。 それを説明するために提唱されたのが、「かつては陸橋(大陸と大陸を結ぶ細い陸地)や大陸が存在していて、それが地殻変動によって水没した」という「陸橋説」で、レムリア大陸説もそのうちのひとつです。 このレムリア大陸説は、ダンリーが起こしたアトランティスブームによって俄然マスコミの注目を浴び、単なる科学的仮説から大衆受けする失われた文明伝説に改変され、アトランティス伝説を信ずる人達によって、第2のアトランティス伝説としてもてはやされます。

そして20世紀に入った1931年、やはりアメリカのオカルト的マッドサイエンティスト(実際には経歴詐称のフリーライター)のジェームズ・チャーチウォードが、ダンリーに倣って「失われたムー大陸」という本を出版し、「太平洋にはかつてムー大陸が存在し、高度な文明を持つムー帝国が栄えていたが、地殻変動のために一夜にして沈没してしまった!」と主張しました。 彼がこの本を出版する以前から、大西洋にはアトランティス大陸、インド洋にはレムリア大陸があったのに、太平洋に何も無かったはずがないという理由で、太平洋にもかつてはパシフィス大陸が存在していた、という憶測がまことしやかに主張されており、チャーチウォードはそれらの憶測を統合する形でムー大陸の話をでっち上げたようです。

その後、大陸と海底には根本的な構造の違いがあり、しかも大陸よりも海底の方が年代的にかなり新しいという観測事実によって、「沈没した陸橋または大陸説」は科学的に否定されました。 そして現代では、プレート・テクトニクス理論に基づいた大陸移動説によって、化石や動植物の分布の謎も、大陸と海底の起源の謎も見事に解明されています。 この「大陸は垂直方向にたかだか数千メートル沈降したのではなく、水平方向に数千キロメートルもの距離を移動した」という有名な大陸移動説は、失われた大陸伝説よりもはるかにスケールが大きく、また19世紀の地質学的常識からすればはるかに荒唐無稽な説です。 ですから、もしダンリーがこの大陸移動説を聞いたなら、さしものマッドサイエンティストたる彼も、「たわけた夢物語だ!」と一笑に付したことでしょう。

失われた大陸伝説は、占星術や錬金術と同じく典型的な似非(エセ)科学です。 色々な似非科学は、あやふやな伝説や突飛な科学的仮説に基づいて、大衆受けするセンセーショナルな物語を創り上げ、その伝説や科学的仮説が否定されてしまった後でも、物語だけが大衆の間に根強く残っているという、ほぼ共通する性質を持っています。 そして多くの似非科学や擬似科学の例にもれず、失われた大陸伝説も、SF小説やマンガに様々なネタを提供しています。 例えばアトランティス伝説を題材としたマンガとしては、星野之宣の好短編「はるかなる朝」や「暁の狩人」を始めとして、枚挙にいとまがありません。 本物の科学に対しては貢献するところがほとんどない擬似科学や似非科学ですが、文学やマンガに対しては多いに貢献しているわけです。

○大陸移動説

ドイツの気象学者、アルフレッド・ウェゲナーが唱えた説で、「太古の地球には1つの巨大な大陸(パンゲア大陸)しかなく、それが古生代の末期(約2億年前)に分裂し、地球の表面を移動して行って、新生代の末期(約2千万年前)にほぼ現在の姿になった」というものです。

1910年頃、何気なく世界地図を見ていたウェゲナーは、ふと諸大陸の形がちょうどジグゾーパズルのように、ぴったりと1つにはまり合うことに気付きました。 私事で恐縮ですが、僕も子供の頃、学校の壁に張ってあった世界地図を見ていて、アフリカ大陸と南アメリカ大陸の海岸線が不思議なほどぴったりとはまり合うことに気付き、奇妙な興味を持ったことをぼんやりと覚えています。 凡人の僕と違って鋭い勘の持ち主だったウェゲナーは、「ひょっとしたら、大昔は地球上には1つの大陸しかなくて、ある時それが分裂したのではないだろうか?」と考えたのです。

これだけなら単なるファンタスティックな思いつきの域を出ず、せいぜいSF小説のネタになるくらいが関の山でしたが、彼の非凡なところは、忍耐強く地道な努力によって、その単なる思いつきを洞察力に富んだ魅力的な学説にまで育て上げたところです。 (関の山とは言うものの、ウェゲナーの時代にそんな奇抜なアイデアによるSF小説が出現していたとしたら、それはまさしく驚嘆すべきことで、「日本沈没」の作者・小松左京も真青になって最敬礼することでしょう。 ウェゲナーが科学一筋の真面目な学者であり、生化学者アイザック・アシモフや理論物理学者フレッド・ホイルのように、SF作家を兼ねていなかったことは、SF界にとってはなはだ残念なことだと言わねばなりません)

専門の気象学以外にも、地質学、古生物学等、その当時の最先端の知識を漁り求め、ありとあらゆるデータを積み重ねて、とうとう自説を確信するに至った彼は、1915年、今や古典となった名著「大陸と海洋の起源」(講談社学術文庫)を刊行し、大陸移動説を提唱して地学学界に大きな衝撃を与えたのです。 80年近くも前に、現在の地球物理学の発展形態をそのままたったひとりで先取りした、まさに「地球物理学の祖」と呼ぶにふさわしい人物と言えましょう。

しかしウェゲナーの大陸移動説は、異端の説として当時の地学学界から猛烈な反論や非難を浴び、特に大陸移動の原動力が不明であるという致命的な欠陥を突かれ、やがて”まっとうな”学者からは見放されてしまいます。 さすがのウェゲナーにとっても、”動かぬこと大地のごとき”大陸を動かすのは容易なことでなく、また当時の科学知識だけでは、いかな天才といえどもその原動力を解明するのは不可能に近いことだったのです。 保守的な周囲の反発にあって、孤立無援の闘いを強いられることは、いつの時代でも、またどんな分野でも先駆者たる人が一度は辿らねばならないイバラの道です。

ところが1950年代の末になって、古地磁気学や海洋底地学の発達により、大陸移動説は劇的な復活をとげます。 そしてウェゲナーの切り開いた道を若く優秀な研究者達が次々と拡張し、整備して、大陸移動説は近代的なプレート・テクトニクス理論として生まれ変り、現在の固体地球科学へと急速に発展してきました。 この地学革命と言ってもよいような画期的な出来事を、自身もその渦中にあった上田誠也氏が、「新しい地球観」(岩波新書)という著書に臨場感あふれる筆致で書いています。 興味のある方は、知的興奮を誘うこの本をぜひ読んでみてください。

○ブラッケットの否定的実験

イギリスの物理学者ブラッケットが行った実験で、自説を否定する結果が出たのにもかかわらず、その結果をきちんと発表したことで有名です。 地磁気の原理がまだ不明であった1940年代に、既に物理学者として数々の業績をあげていたブラッケットが、「地球のような巨大な物体が自転すれば、必然的に1つの磁石になる」という学説を提唱しました。 その学説によれば、その原理は、当時の物理学では発見されていない種類の新しい力によるもので、もしその説が正しければ、地磁気だけでなく宇宙で特別に強い磁気を放出している恒星についても、統一的に説明することが可能だとされていました。

彼は自説の検証のために恐ろしく精密な磁力計を開発して、精力的に実験を行いましたが、必死の努力も空しく結果は否定的でした。 しかし、この古武士(イギリスですから「古騎士」というべきでしょうか?)の趣ある老学者は、その否定的結論をきちんと論文にまとめ、「否定的実験」と題して発表したのです。 自説に自信を持ちながらも、実験データを曲解することなく、公平無私な目で眺めて、冷静に適確な科学的判定を下し、科学のためにあえて結果を発表したこのブラッケットの態度は、科学者として当然と言えば当然の態度ですが、我々俗人にはなまなかなことではまねできない、粋な態度と言えましょう。

この話には印象的な後日談があります。 ブラッケットがこの実験のために開発した超高感度の磁力計は、岩石の残留磁気の測定に流用され、古地磁気学の発達に大いに貢献しました。 そしてその結果として、前項で話題にしました大陸移動説の復活に間接的なきっかけを与えることとなったのです。

色々な試験や実験では、だいたいにおいて期待どおりの結果が出るものよりも、期待はずれの結果が出るものの方が多く、それらはネガティブデータとして日の目を見ないことが多いものです(某業界では「社内資料」と呼ばれます。(^^;))。 しかし、ポジティブデータよりもネガティブデータの方が参考になることがしばしばあり、ネガティブといえども決しておろそかにはできません。 研究者たるもの、すべからくブラッケットの態度を見習いたいものです。