科学的研究とは、一見したところ多種多様な現象からその奥底に潜む普遍的な原理を帰納的に推理・洞察し、色々な現象を統一的に説明すると同時に、その原理から演繹的に予測される現象を推測し、実験や観測によってそれを確認したり修正したりしながら、理論を確立していく作業です。 その作業手順を文化人類学者の川喜田二郎博士が考案した「W型解決法」にあてはめますと、下図のように模式化することができます。

書斎科学というのは、問題提起、仮説や理論の構築、実験結果の実質科学的評価など、主として頭の中で行う作業だけで成立する科学で、数学や理論物理学がこれに相当します。 野外科学というのは、実験を行うことができず、現場の調査や観測が中心となる科学のことで、社会科学の多くがこれに相当します。 実験科学というのは、実験や試験を中心とした科学のことで、単に「科学」と言えばこの実験科学を思い浮かべる人が多いと思います。 典型的な科学研究は、上図のようにこの3種類の科学をW字型に組み合わせた手順で行い、理論を確立していきます。
ちなみにW型解決法を仕事に応用すると、PDCA(Plan、Do、Check、Action)などのマネジメント・サイクルを詳細化したものになり、それにマクレガーのY理論を組み合わせたものが、近代的な業務管理手法の代表的なものである──なんてぇことは、僕には全く興味が持てません。 OJTやOffJTなんて、クソくらえっ!凸(-"-) > 会社の人事部
……つい私情に走ってしまい、失礼しました。 実際の科学的研究活動は、経験と独創力から産み出された優れた研究仮説や理論を主体として、研究法の論理と技術とで正しく方向付けしながら、実行力と研究費によって進めていく作業です。
仮説や理論に裏打ちされず、目的のはっきりしない研究は、やってもあまり意味がありませんし、正しい実験計画のない研究は、地図を持たない登山のようなもので、多くの時間と費用を無駄にし、その挙句、結果が得られなかったり、時には間違った結果を得たりします。 また実行に必要な人・物・費用・時間(いわゆるヒト・モノ・カネ・ヒマ)がなければ、動きがとれません。 日本の研究環境は、外国と比べ、ヒトは揃っているのです(と僕は信じています)が、モノとカネが絶対的に不足していると言われています。 確かに欧米の、特に基礎研究にかける費用と情熱には驚くべきものがあり、頭脳流出もむべなるかなという思いがします。
近代科学、特に自然科学では観測データを可能な限り数量化し、理論を数式で表現することが多いため、科学用言語として数学が用いられるようになり、中でも演繹的な微積分学と、帰納的な統計学とが重宝されています。 微分とは「微(カス)かに分った」、積分とは「分った積(ツモ)り」などと言われていて、学生時代、我々をさんざん苦しめた不倶戴天の敵です。 統計学あるいは推計学(推測統計学)も何かと人を悩ます疫病神で、特に生物学分野や社会科学分野の人達が被害にあいます。
近代科学の父ガレリオ・ガリレイは、
「自然の書物は数学の言語によって書かれている」
という名言を残していますが、憂鬱なことにこの言葉はどうやら真実のようなのです。 我々庶民には全く頭の痛い話ですが、今のところ他にうまい方法もないので致し方ありません。
自然科学と違い、社会科学における野外科学では、観測データが数字で得られない場合も多々あります。 そのようなデータを整理・統合するために、川喜田二郎博士は発想法に基づくKJ法という手法を開発しました。 この発想法は色々な所に応用が利き、僕のお気に入りの考え方です。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスが考案した論理的思考法のひとつで、演繹法(deduction)と帰納法(induction)を合わせたような、第3の思考方法です。 演繹法と帰納法は有名ですからよく御存知だと思いますが、念のため簡単に説明しますと、演繹法とは延々と駅を連ねていくような方法で、帰納法とは昨日へ昨日へとさかのぼっていく方法である……などという説明を、知らない人にしてはいけません。(^^;)

演繹法とは、ある事実や仮定に基づいて、それから論理的に導くことのできる事項を次々と推理していく発散的思考法で、三段論法や公理から定理を証明していく数学的思考法がこれに相当します。 例えば、ある日突然、宇宙からやって来たラムという名のキュートな少女が、地球の浮気っぽい少年アタルに一目惚れしてしまいました、さあいかなることに相成りますやら……などということを連想していくのが演繹的思考法でありまして、これはマンガやSF小説の最も得意とするところです。
この思考方法は非常に突飛な設定をしておいて、そこから話を展開していくシチュエーション・ドラマと呼ばれる物語作りにも応用できます。 大昔のアメリカ製TVドラマ「奥様は魔女」や「ミスター・エド」や「母さんは28年型」、比較的最近の映画では「ゴースト・ニューヨークの幻」や「天使にラブソングを…」、そして弓月光の傑作マンガ「ボクの初体験」などがシチュエーション・ドラマの典型です。
帰納法というのは、反対に一見多種多様な個々の事実からそれらに共通する根本的かつ普遍性なことを抽出していく収束的思考法で、自然科学全般や統計学がこれに相当します。 例えばAで始まる名前の町で、Aを頭文字に持つ人物が殺され、次にBで始まる名前の町で、Bを頭文字に持つ人物が殺され、さらに同じような事件が次々と起こっていく、その理由や如何に?……などということを推理するのが帰納的思考法でありまして、これはもう言わずと知れた推理小説の独壇場です。
この思考方法はオチを先に考えておいて、それに合わせて設定を考えていく物語作りにも応用できます。 小説家のO・ヘンリーがそれを得意としていて、「最後の一葉」、「二十年後」などが典型的な作品です。 また映画「スティング」とか、星野之宣の好短編マンガ「残像」などもその作り方をしたと思われます。
発想法は演繹法と帰納法を合わせたような収束かつ発散的思考法で、西洋の合理的な思考法とは相入れず、ずっと発達せずにいましたが、近年になり、日本の川喜田二郎によって「KJ法」として定式化されました。 物語で言えばサミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」とか、つげ義春のマンガ「ねじ式」とか、フェリーニの映画「8 1/2」などが発想法的思考法による作品と言えましょうか。
KJ法は元々は野外科学データの効率的な整理法として考案されたものですが、会議や討論を効果的に進める手法として、学校や企業などでも大いに流行しました。 20数年前、当時はまだ珍しかったKJ法の合宿研究会があり、高校生だった僕も参加したことがあります。 何しろ感受性豊かな(と思っていた(^^ゞ)時代ですから、その研究会で強烈な印象を受けてしまい、一時期、やたらとKJ法に凝りました。 今でもその時の影響が残っていて、色々なことにKJ法的な方法を使っています。
KJ法は一言で言えば「目と手と頭で考える思考法」で、色々と多彩な手法が開発されています。 最も代表的な「KJ法A型」では、最初に多種多様な情報をできるだけ短い文章で表現して、それを小さな紙切れに書き込みます。 そしてその紙切れをB紙などの上に置いて、似た物同士をグループ化し、端的な表題を付け、さらにそのグループ間の関係を図式化します。 このように、言葉と図をうまく組み合わせることにより多種多様な情報を統合して、その内容と相互関係を把握しやすくすると同時に、新しい発想をしやすくします。 また手を使った作業を通して、情報が自然と頭に入り、記憶に残ることにもなります。
発想法に関しては色々な解説書がありますが、やはり本家本元の「発想法」および「続・発想法」(ともに川喜田二郎著、中公新書)が一番お勧めです。 興味のある人は、ぜひ読んでみてください。