2010年にCOP10が名古屋で開催された関係で、 生物多様性に関する話題が様々なメディアで取り上げられることが多くなりました。 実は、COP10は生物全体のために生物多様性を保護しようという会議ではなく、生物資源を国と国とが勝手に奪い合う、ヤクザ同士の縄張り争いの会議であり、COP10がらみで巷に溢れている生物多様性保護議論は、人間中心主義――自然環境は人間が利用するための存在である、または人間がもっとも進化した存在であるという主義――に基づいた議論です。 このためヘソ曲がりの僕から見ると(^^;)、矛盾・誤解・曲解に満ちています。
例えば、日本固有の生物を外来生物が脅かしていることに対する警告が政府や”知識人”から発せられることがあります。 しかしこの警告は、明らかに生物多様性の保護と矛盾しています。
そもそも生物は、絶え間ない環境の変化に適用できるように、異なる生物と遺伝子を交換し合うことによって多様性を確保してきました。 つまり異なる環境で異なる進化をした生物同士が出会い、お互いに影響し合い、遺伝子を交換し合うことによって豊かで多様な生物が生み出されてきたのです。
日本列島は大陸から離れて新たに形成された土地のため、日本固有の生物というのは存在せず、色々な場所から日本列島にやって来て、お互いに影響し合い、遺伝子を交換し合いながら、日本列島の環境に合わせて独自の進化を遂げた――実際には、現在も進化しつつある生物ばかりです。 そのため日本固有の生物と外来生物との境目は限りなく曖昧です。 はっきり言えば、日本固有の生物と外来生物という区別は無意味であり、日本列島に来た時期が早いか遅いかという区別しかありません。
したがって外来生物を排除してしまえば、日本列島における生物多様性は確実に失われていき、生物は環境の変化に対応し切れなくなってしまうでしょう。
現在、地球上には500万種〜1億種(よく使われる推定値は約3000万種)の生物がいると考えられていて、そのうち人間によって命名されている既知の生物は約175万種です。 仮に現在の生物を約3000万種として、人間によって命名されていない残りの約2825万種の生物は全てUMA(Unidentified Mysterious Animal、未確認動物)かというと(^^;)、さにあらず、ほとんどは目に見えない微生物と考えられています。
現在の既知の約175万種の生物の内訳は、動物、植物、昆虫などの目に見える多細胞生物が約170万種で、残りの約5万種が細菌などの目に見えない微生物です。 既知の約5万種の微生物はたまたま人間と直接的・間接的に関係があったため、人間によって発見されて命名されただけです。人間と関係がない微生物は発見されにくく、それが残りの約2825万種のUML(Unidentified Mysterious Life、未確認生物(^^;))の大半を占めているのです。
そして多くの微生物は他の生物の力を借りずに単独で生存できる能力と、かなり苛酷な環境でも生存できる能力を持っています。 それに対して人間を代表とする約170万種の多細胞生物は、他の生物――最終的には単独で生存できる微生物――の力を借りなければ生存できない”寄生生物(^^;)”であり、しかも非常に限られた環境でしか生存できません。 つまり全生物のうち圧倒的多数のものは単独で生存できる生物(独立栄養生物)であり、残りのごくわずかな生物は、それらの生物に依存した寄生生物(従属栄養生物)なのです。
このため生物多様性の保護とか環境保護というのは、生物全体から見ればごくわずかにすぎない寄生生物を中心にした、身勝手で偏った議論であるということになります。 そして人間にとって直接的に益になるか害になるかという目先の利益だけで、生物を「益獣/害獣」とか「益虫/害虫」などと呼んでエコ贔屓したり、人間の利益を「地球に優しい」とか「地球温暖化」などと言って生物全体の利益にすり替えるのは、人間中心の身勝手で傲慢な考えです。(-"-)
そもそも生物は蛋白質でできた酵素という触媒の塊であり、外界から物質を取り入れて酵素の働きで化学反応を起こさせ、それによって生じるエネルギーと生成物で生命活動を維持しています。 その際、必要な物質は全て環境から直接取り込むのが本来であり、初期の生物は全てそうした能力を持っていました。
現在知られている全ての生物は、同じ遺伝方式――DNA→RNA→蛋白質合成という方式で、「セントラルドグマ」という――とほぼ同じ遺伝コード――DNAを形成する4種類の塩基の中の3種類の塩基が1つのアミノ酸に対応する時のコードで、「コドン」という――を使用しています。 遺伝コードには理論的に多くの種類(4×4×4=64通り)がありますが、現在知られている生物はその中の一部しか使っておらず、しかもそれがほぼ全ての生物で共通しています。 使用されている一部の遺伝コードには特別な必然性はないので、これは考えてみれば不思議なことです。
そこで初期の生物は様々な遺伝方式と遺伝コードを持っていたが、その中のただ1種類の生物だけが繁栄して他の生物は絶滅し(またはまだ発見されていない)、それが現在知られている全生物の共通の祖先になったという、共通祖先(common descent)説が提案されています。 その共通祖先のことを「LUCA(ルカ、Last Universal Common Ancestor)」といいます。 当然のことながら、LUCAは環境から物質を直接取り込み、単独で生存できる生物であり、生命活動の全てを1つの細胞で行うことができる単細胞生物だったはずです。
やがてLUCAが古細菌(アーキア、Archaea)と真正細菌(バクテリア、Bacterium)に分かれます。 これら2系統――生物学分野では「2ドメイン」といいます――の生物には細胞核がないため、まとめて原核生物(プロカリオート、Prokaryota)と呼ばれることがあります。 古細菌は比較的単純な生物であり、LUCAの直系の子孫と考えられているのに対して、真正細菌は多様な能力を持つ複雑な生物です。
例えば、ある真正細菌は光合成によって生命活動に必要な物質を合成し、その副産物として、それまでの生物にとって猛毒である酸素を生成する能力を持っています。 そして別の真正細菌は、その猛毒の酸素を利用して生命活動に必要なエネルギーを生成する能力を持っています。 また生物の必須元素である窒素を取り込む能力や、有機物を分解して無機物にする能力を持つ真正細菌もいて、それらの真正細菌の能力を借りなければ、人間を代表とする多細胞生物は生存することができません。
それに対して古細菌と真正細菌は、生命活動の全てを1つの細胞で行うことができ、単独で生存できる”まっとうな(^^;)”生物です。 いわば古細菌と真正細菌が自立した一人前の生物であるのに対して、人間を代表とする多細胞生物は他の生物に依存する半人前の生物といえるでしょう。(^^;)
ある時(約20億年前)、一部の古細菌が一部の真正細菌を細胞内に取り込み、協力して生命活動を行う共生を始めました。 取り込まれた真正細菌の一部は、やがて光合成を行う葉緑体や、酸素を利用して生命活動に必要なエネルギーを生成するミトコンドリアになります。
共生した古細菌と真正細菌は、それぞれ独立に遺伝子を子孫に伝達しようとしました。 取り込まれた真正細菌は細胞膜に包まれていたため、その内部の遺伝子は守られていました。しかし古細菌の遺伝子は細胞の中に裸のまま存在していたので、それを膜で包んで細胞核として保護することにしました。 そのため、この細胞核を持つ共生生物のことを真核生物(ユーカリオート、Eukaryota)といいます。
そしてこの真核生物から後に植物や昆虫や動物が派生し、その中の1種類が人間になります。 さらにその後、人間のミトコンドリア遺伝子のイブが、遺伝情報の主導権を握ろうとして人間に反乱を起こす……というストーリーの傑作SFホラー小説が、瀬名秀明の「パラサイト・イブ」です。(^_-)
真核生物の構成要素である古細菌と真正細菌は、共生によって生命活動の一部だけを担当するようになり、どちらも単独では生存できません。 しかし真核生物としては単独で生存することができます。 ところが共生という便利な関係に味をしめたのか(^^;)、一部の真核生物は色々な真正細菌や真核生物と共生するようになります。 中には相手の能力を借りるだけで、相手にとっては利益にならない”寄生”もあり、それにアグラをかいた真核生物は、やがて単独で生存する能力を失った寄生生物になっていきます。
しかし寄生生物はまだ罪が軽い方で、そのうちに比較的身体が大きい一部の真核生物が他の生物を取り込み、その生物が生産した生成物を横取りして自らの生命活動に利用し、その生物を破滅させるという、実にけしからんことを始めます。 この不届き千万な”やらずぶったくり行為(^^;)”のことを、「生命泥棒」とはいわずに「捕食」といいます。
共生や寄生と違って捕食は相手の生物を殺してしまうので、次から次へと他の生物を取り込む必要があります。 そしてそれにアグラをかいた生物は、寄生生物と同じように他の生物に依存し、しかもその生物を殺してしまうという、寄生生物よりも悪どい捕食生物になります。(-"-)
こういった捕食生物が出現すれば、次はその捕食生物をそれよりも大きな生物が捕食するという、”泥棒の上前をはねる大泥棒(^^;)”が出現するのは当然の成り行きです。 そして他の生物を捕食するには身体が大きい方が有利なため、捕食する真核生物は多細胞生物へと進化し、それぞれの細胞が生命活動の一部を担当するようになります。
そうなると後はもう単独で生存する能力はできるだけ捨て去り、他の生物を捕食する能力だけを高めた、身体の大きい捕食生物が次から次へと出現するという捕食競争の連鎖になります。 この生命泥棒同士の”仁義なき戦い(^^;)”の連鎖がいわゆる「食物連鎖」であり、食物連鎖を形成する多様な生物群が生物多様性の中核になります。
このように食物連鎖は単独で生存できる生物の存在の上にアグラをかいたものであり、彼等がいなければ成り立たない砂上の楼閣のようなものです。 このため生物全体から見れば、わずかな種類の生物だけが関係しているのは当然のことです。 これは、まっとうな仕事をしている一般人がいなければ泥棒は存在できず、しかも一般人に比べると泥棒はわずかな数しか存在できないのと同じ理屈です。
そして泥棒の被害にあった人以外の大多数の一般人は、泥棒同士の”仁義なき戦い(^^;)”とは全く無関係に生活しているのと同様に、食物連鎖に関係しない大多数の単独生存可能生物は、生物多様性とは無関係に単独で生存することができます。
そのような大多数の”まっとうな”単独生存可能生物から見れば、生物多様性の保護とか環境保護という議論は、少数の”ヤクザな”捕食生物や寄生生物の身勝手な議論でしかないでしょう。 彼等は、そんなナンセンスな議論をするよりも、不届き千万な捕食や寄生をやめて単独で生存できる”まっとうな”生物に更生するか、それとも生物界全体のために、”ヤクザな”捕食生物や寄生生物は速やかに絶滅して欲しいと思っていることでしょう。(^^;)
実際問題として、たとえ鯨や白熊が絶滅したとしても、それを観光資源にして利益を上げている一部の人間が困るだけであり、生物界全体にとってはほとんど何の問題にもなりません。 それどころか約170万種の多細胞生物が全て絶滅してしまったとしても、3000万種以上もいる生物界全体にとってはそれほど大きな問題にはなりません。 事実、生命が誕生した約35億年前から多細胞生物が出現する約10億年前までの約25億年間もの間、単細胞生物達は平和に暮らしていたのです。
鯨や白熊ではなく、例えば有機物を分解する単細胞生物である腐敗菌が絶滅すれば、生物の死骸や排泄物が分解されず、生物の身体を形成する元素が循環されなくなって、植物も動物も昆虫もまたたくまに絶滅してしまうでしょう。 その意味では、生物多様性の保護のためには、鯨や白熊を保護するよりも腐敗菌などの細菌を保護する方が重要ということになります。
しかし現在の生物多様性の保護議論や環境保護議論で、”腐敗菌を絶滅から救え!p('o')”といったスローガンが主張されることはなく、細菌保護キャンペーン(^^;)が展開されることもありません。 むしろ人間の目先の利益で「善玉菌」と分類された乳酸菌など一部の細菌を除いて、腐敗菌などの細菌は人間から目の敵にされ、”消毒”と称してジェノサイド(^^;)の標的にされることが多いでしょう。
そういった人間中心主義に基づいた生物多様性の保護議論や、イメージだけの環境保護議論のおかげで、生物多様性が本当に保護されることも、環境が本当に保護されることもなく、長い目で見ればヤクザな捕食生物や寄生生物は絶滅への道を確実に歩むことになります。 この皮肉な状況を横目で眺めて、まっとうな単独生存可能生物は密かにほくそ笑んでいるのではないでしょうか。
生物学分野では、生物の進化や分化を樹木の形で図示した「系統樹」をよく用います。 遺伝子の構造が解明される前は主として生物を形態学的に分類していて、しかも人間中心主義に基づいて系統樹を描いていました。 このため以前の系統樹は、下図のように大地に根を張った大木のような形で描かれました。 現在でも、系統樹というとこのような図をイメージする人が多いと思います。
この系統樹は上に行くほど進化した生物であり、人間は進化の頂点に君臨しているというイメージで描かれています。 これは「人間は万物の霊長であり、生物界は人間を中心にして回っているのだ!p('へ')」という人間中心主義に基づいた、”生物界の天動説的系統樹(^^;)”です。
しかし現在では、生物の分類は形態学的なものと遺伝子的なものを総合して分類するようになっていて、しかも人間中心主義から脱却した系統樹を描くようになりつつあります。
遺伝子の研究が大きく進んだ結果、進化と進歩は全く別の概念であり、進化は必ずしも器官の発達や複雑化をもたらすわけではないし、また知能を発達させるとも限らない、ましてや人間が進化の頂点であるという考えは間違いだということがわかってきました。 そして進化とは「時間の経過に伴う生物集団中における遺伝子頻度の変化」であり、人間は他の生物と同じく環境に適応し、枝分かれしながら進む進化系統樹の末端の枝のひとつにすぎないと認識されるようになってきました。 その結果、現在の系統樹は、下図のように根の無い丸い潅木の形で描かれることが多くなりつつあります。
この系統樹では全生物の共通祖先LUCAが中心に位置し、そこから古細菌ドメインと真正細菌ドメインが枝分かれし、さらに古細菌ドメインから真核生物ドメインが枝分かれしています。 そして円周に位置する枝の先が現存する生物であり、全ての生物が平等に扱われています。 この系統樹では人間は真核生物ドメインの動物界の1つの枝にすぎず、進化の頂点でも万物の霊長でもありません。したがってこの系統樹は生物平等主義に基づいた、”生物界の地動説的系統樹(^^;)”といえるでしょう。
「進化した生物ほど複雑で知能が発達していて、人間は進化の頂点である」という誤解や、「人間はサルから進化したのだから、今生きているサルはやがて人間に進化する」というありがちな誤解は、「進化」という言葉に問題があるのかもしれません。 「時間の経過に伴う生物集団中における遺伝子頻度の変化」という進化の定義からすれば、「分化」という言葉の方がより適切な気がします。
人間とサルは両方の種の共通祖先から分化し、それぞれ独自に環境に適用した生物であり、人間の方がサルよりも進化しているというわけではありません。 それと同様に、細菌は大昔から進化していない低級な生物であり、人間の方がより進化した高級な生物であるというわけでもありません。 細菌も環境の変化に応じて同じように進化しており、共通祖先であるLUCAから進化していた時間は人間と同じです。 ただ細菌は環境適応能力が高く、しかも単独生存可能生物ですから、進化によって身体の構造を大きく変える必要はありませんでした。
それに対して多細胞の捕食生物は環境適応能力が低く、しかも”仁義なき戦い(^^;)”である捕食連鎖の渦中にいたため、ちょっとした環境の変化や、捕食生物同士のパワーバランスの変化に応じて、身体の構造を大きく変える必要がありました。 これは、まっとうな仕事をしている一般人の社会が比較的安定しているのに対して、仁義なき戦いに明け暮れるヤクザの社会がやたらと不安定なことと同様です。
つまり細菌は最初からある程度完成した生物だったので、進化によって身体の構造を大きく変える必要はなかったのに対して、人間の祖先である多細胞の捕食生物は不完全な生物だったので、進化によって身体の構造を大きく変える必要があったというわけです。 その意味では、人間よりも細菌の方がよっぽど”進歩”した生物であるといえるでしょう。(^_-)